見出し画像

誹謗中傷、あるいは他人の人生に介入しようとすること【解決編】

過去の記事を上記に掲載していますので、読んでください。いや、よめ。

-------------------------------------

これまで誹謗中傷に関して取り上げたが、これまでの記事を読んだ人は、私が誹謗中傷それ自体を問題視していないことに気づいてくれただろう。

誰かを誹謗中傷しようとすることは、SNSがコミュニケーション手段として盛んになるはるか前からあることで、当時においてそれが重大な社会問題であったという話は聞かない。

誹謗中傷の主な原因

言葉や人の活動について問題が生じるとき、その原因は大概以下にまとめられる。

1,それが今までとは違う使われ方をしている(意味の変化)
2,それを黙認してきたが、おかしいと認識するようになった(再検討)

1は言葉の誤用をイメージしてもらえばわかりやすい。「全然」が過去では否定の尺度を表す意味として用いられてきたのに対し、現代は肯定と否定そのどちらの状態においても使われている。

このようなケースは、あからさまに表面的な問題として浮かび上がることはほとんどなく、著名人や有識者がメディアを通して問題提起をすることで初めて大衆が認知するようになる。

特に会話はコミュニケーションそのものが重視される傾向にあるので意味や文脈は軽視され、言葉は流行の影響を受けやすい。

これは言葉だけでなく行動や態度においても同じことがいえる。例えば、セクハラはそれが許されてきた過去において、歪んだコミュニケーション手段のひとつとして用いられてきたことが多かった。しかし、女性の社会進出が当たり前とされる現代では、キャリアの進退を妨げるもの、人を支配しようとするものとしての意味合いが大きくなった。

時代変化に伴う社会構造の変化や流行によって、物事の扱い方自体も変わっていくことが1である。

2は最近のテレビを例にする。

最近のテレビでは容姿のいじりがいじめに繋がるのではないかということで、人の外見や性格、趣向をなるべく馬鹿にせずに笑いを取ろうとする空気が感じ取れる。

島田紳介氏がテレビに出ていた頃は、容姿のいじりも数多く行われており、時には自虐ネタとして用いられることも多かった。人によっては不快感を生みかねない“いじり”が許されていたのは、「いじられることは芸人にとって美味しいことでそういった考えが同じコンプレックスを持った人に勇気を与える」という風潮があったからだ。

しかし、誰もがみんな自身のコンプレックスを自虐ネタに昇華して笑い飛ばせるような人間ではないため、そういった“いじり”は彼らにとって健全なコミュニケーションを阻む要因になってしまう。

そういった側面が大きくなってきたため、「やっぱり、“いじる”ことは悪いことだ」という世間の考えも大きくなった。

このように、時代が変わるにつれて物事の違う側面を検討することで、善悪を考えようとするのが2の特徴である。

今回取り上げる誹謗中傷は、1のケースに当てはまると考える。

過去の記事でも書いたことではあるが、従来の誹謗中傷はコミュニケーションの手段でしかなかった。

生活や趣向のほとんどが共有されない他人との会話において、わかりやすい有名な誰かの誹謗中傷はとかく話題の中心になりやすかったし、誹謗中傷できる話は感情が大きく動くことも少なくないので、会話をする他人との距離をグッと縮めるものとしてうってつけだったのだ。

芸能人の不倫問題は政治問題よりもワイドショーの中心にあげられることは多いことからもそれがわかる。

そして、誹謗中傷がコミュニケーション手段としてしか使われなかった理由は、誹謗中傷の的である本人に伝える手段は今よりも限られていたことにある。

インターネットが誰でも使える現代と違って、有名人へ自分の考えを伝える手段の主たるものが手紙やハガキだった頃は、行動としてのコストが高く、また誹謗中傷などというのはそれほどのコストを払ってするようなものでもないため、よっぽどのことがない限り直接伝えられることはなかった。

つまり、誹謗中傷は話のネタ程度のものであり、わざわざ声を大にしていうことでもなかったということである。

しかし、TwitterやInstagramなどのSNS文化が定着し、誰でも有名人と気軽に関わることができる社会になってから、誹謗中傷を扱うコストはかなり小さくなる。

従来であれば葉書と切手を買って、事務所の住所を調べ、ポストに投函という作業を要していたものが、現代ではアプリで投稿するだけなのだから誹謗中傷に躊躇することはほとんどなくなっただろう。

コストダウンに伴い、思いついた言葉を第三者へ見せずに直接伝えることができるようになったことから、誹謗中傷の意味もコミュニケーション手段から一種の脅迫や要求に近いものとなっていく。

例えば、youtuberの動画が炎上しているとき、「あなたの発言(行動)に幻滅しました。謝罪動画を出すべきです。さもなくば、私はあなたを批判し続けます。」という趣旨のコメントを見つけることができる。

そういったコメントに追随するように、多くの視聴者が「謝罪しろ」という趣旨のコメントを残して、とかくyoutuberの謝罪を要求しようとする。

これは視聴者がコメント欄を通してyoutuberへ気軽に意見が言えるようになったことと、youtuberが視聴者の意見を真摯に受け止めながら動画制作を行なっていることを利用したものである。

登録者が100万人超え、出す動画ほとんどのコメント数が1000を超えるようなyoutuberでなければ、視聴者の反応は動画制作の方針として重要な情報になる。賛辞としてのコメントには感謝を、辛口のコメントには謝罪と反省の意思を示すことが多数のyoutuberにとっての美徳となっている。

視聴者もそういったyoutuberをクリエイターましてや人としてのあるべき姿として考えているため、上記のようなサービス対応をyoutuberがとってくれて当たり前だと考えている節がある。

一方でyoutuber側も何ひとつのサービスもなしに、誠意にかける態度をとってしまえば、これからの成長戦略から大きく逸れてクリエイターとして燻ってしまうような恐怖を感じているため、以後の作品にそういった影響を匂わせるようなものを制作してしまう。

誹謗中傷は、あらゆる罵詈雑言をクリエイターに伝えることで彼らの方針や態度を変えるように要求する試みとなっており、仲間内で行われる冗談めいた会話ではなくなっている。

投稿者と視聴者双方の理解

ときに人の命を奪ってしまう可能性もあるので、誹謗中傷はやめましょうという考えが世間では大きくなってきているが、現実的にそれらがなくなることはほぼ不可能だと考えている。

過去記事でも書いたが、誹謗中傷と批判の区別が明確でない人の方が割合としては多く、「あいつは叩かれて当然なことをしたんだ」という理由から現在進行形で誹謗中傷が行われている状態において、「人の命は尊いんだから(キラーン)」みたいなのはもはや世迷言でしかない。

そして意見を受け止める側の人間によっては、それが批判であれ誹謗中傷であれ受けるストレスの大きさはほとんど変わらないのであるから、なおさら誹謗中傷をなくそうみたいなものは無意味である。

そもそもテレビのような全国的に情報を流布できるメディアが誕生する以前から誹謗中傷というのは変わりなくあったのだから、私たちができることは誹謗中傷や他人に関わることそのものの考えを改めることしかない。

村八分が当然のように行われていた昔は、それこそ他人の生活に関わることで信頼を生んでいたし、村に訪れるかもしれない事件の潜在的なリスクを減らしていた。互いが互いの人生に深く関わることが身を守る手段としてあったのだ。

しかし、村が拡張され、巨大な街へとなっていった現代では、誰かの人生に関わるということが形骸化された習慣として残っている。もはやこんなものは必要ないはずだ。

自分は誰の人生に手を出そうとしているのか、なぜ他人が自身の人生に手を出そうとしてきているのか、そういった非常に曖昧な考えをそれぞれが心の片隅にいれていかなければ、誹謗中傷が問題とされる現代で適切に生きられないだろう。

本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり