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心は過去でしか出来ていない

 あんまり自分の記憶や経験を短期間で切り売りするもんじゃないですね。

昨日おとといと、自分の経験を羅列させようとするこころみをしたが、あんまり精神衛生上いいものではなかった。

 ただ、「親に謝らせた」話はいろいろな方に読んでいただけて、ある程度参考になったみたいで、ヨカッタ……。

 過去について言及することがつらいのは、動物が生きていくための仕組みなのではないかと思う。過去のことに執着していては野生動物はいきてはいけないだろう。

 なぜ人間は過去について反芻することができるようになったのかといえば、それは言語によるものだろう。

「言語化する」という行為は、必ず過去のサルベージである。

 脳内にあるイメージを音や文字にする(無意識的なものも含め)のが言語化するという行為である。
動物の鳴き声などと違ってほとんどの言葉には語順がある。われわれは無意識的に出た文でさえ、しっかりと適切な単語、適切な語順に処理するという高度な変換を行っている。

 ということは、脳内にあるイメージから実際に発された言葉までは時間的にも工程的にもそれなりの「距離」がある。

 それはすなわち脳内イメージは言語化している時点で過去のものであるということです。

 で、いちど言語を獲得した人間は言語という基礎OSなしで考えることはできない。発語せずともことばで考えつづける。

 ということは言語化に近いことは常に行われているのである。

 だから私たちの心はストックされた「過去」でいっぱいで、心(感情)とはすなわち引っ張り上げられた「過去」のことなのではないか。

過去との連続性

 前に書いた自分のブログの文章を見たのですが、「思い出す」という行為によって過去の記憶が書き換えられる。つまり時間の連続性は人間にとって常に不確かである、と語っていました。なるほどって感じだったんですが、それをもって
「人間の発達段階も歴史も、仮定、仮想上の連続性、そう見えることもありますというだけの物語にすぎない」
ということを言っててびっくりした。筋は通っていると思うんだけど言い過ぎじゃない?

 まったく過去の自分は何を言っているかわからなくて信用がおけませんな。


日記

 今日は……なにをしたんだっけ?あんまり思い出せない。ボイスロイド実況シリーズがおもしろかったな。

 いや、大変おもしろかったけど、面白かった動画の紹介だけとは日記として虚無すぎる。あとで過去を振り返ろうとしてこの記事を読んだ未来の自分に申し訳が立たない。

 あっさっきまでQMAcloneというクイズマジックアカデミー(QMA)の仕様をコピーしたブラウザ対戦クイズゲームを友達とやってました。権利的に危うい感じもありますが、問題は基本的に有志制作のオリジナルで、ここにしかない魅力があります。

 とくにテーマという1小ジャンルに特化した問題を解くモードがすごい、1000を超す大量のテーマはすべて有志制作で、異常にマニアックな問題があって面白い。パーティゲーム的な楽しみ方ができて、本家QMAやアプリのみんなの早押しクイズとかよりも色んな人とやるハードルが低い。ただしテーマはオタクくさいのが割合的に大半を占めるぞ。

 という感じでした。昨日見た宇宙巡洋艦っぽい雲。つたわるかな?

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にょ