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『子は親を救うために「心の病」になる』を読んで考えた自分と親の形質

 高橋和巳さんの『子は親を救うために「心の病」になる』という本を読みました。

 社会とうまくいかなったりしてしまう人間のもろもろの精神的疾患は、幼少期の親との関係性に起因するということを実際の症例をもとに説明した、精神科医の書籍です。

 幼少期、子供にとって親の求めに応えることが最善の生きる方向性となるが、自由度が上がるにしたがって段々とそれ以外のありかたを模索して、自分の人生を生きるようになるのが人間の基本的な発達だ。
 考え方としてそれは4段階に分けられるが、それが親、家庭環境によってはその段階をうまく踏めず、どこかのタイミングで心の病気か家庭内トラブル等になって表れてしまう。(例:家庭内暴力、引きこもり、摂食障害、虐待の連鎖、強い離人症)それは親が成長する過程でどこかで閉ざしてしまった生き方に起因するという。つまり「心の病気」が示す病巣は子よりも親にあるということだ。

 そして、子の苦しみの表明に対等に向き合うことで親は閉じてしまった生き方をとりもどせる、ということを描いている。


 これは素晴らしい本でした。なによりも、自分が母親を心配しているのだということに気づけたことが良かった。
 中学生のとき、母親は自分にとって魅力的な人間ではないと気づいた。母子関係ゆえに同じ家で日常的に生活を共にしているが、この人の性格や生き方は一個人としての自分がつきあいたい人間ではないのだと気づいた。たとえば年齢が近い知人として現れたとしてもそこまで仲良くできないだろうと。
 それで家族について悩んだり苦しんだりするときは「自分の問題」として処理してきた。
 母が魅力的でないというのは間違いではないし、自我の獲得、自尊心の防御という点で良い気づきだったと思うが、そうはいっても、母親という存在が特別なことはかわらない。母親のことをかつて乳飲み子であった私の精神は愛しているし、母親のことを心配していて、それでずっと苦しいのだとようやく今になってわかった。

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 そんなことを思っていたら先日「ゴミをちゃんと捨ててない!」みたいなことでめちゃくちゃキレてきて、げんなりしながら「そうやって他者にキレて他者を許さない生き方が他者も自分も傷つけてきたんだ」と言ってみた。それは反発心でもあてつけでもなく、本当に心配しているということを表明したかったのだが……伝わらなかった。
 そうしたらさらにヒートアップして私の生活態度をあげつらってきたので、子供のころからつらかった話とかしたらもっと大変なことになった。「私が死んだらいいの?!死んだら許せるの?」とか言ってきた。これはさすがにうざかったですね。そういうことではないし死んでもゆるさないよと言ったけどそんな状態の人間に言葉が通じるわけはないのだった。(通じない前提で私も返していたが。)
 ちょっと距離を離したところ、父親になにか言われたみたいで、そうしたらいきなり泣きながら「みんなで私を責めるんだ!」とかなんとか叫びだした。泣いて落ち着いたっぽいところで「そうやって感情コントロールできなくなって泣いたり叫んだりしないで生きる方法はあるんじゃないか」と言った。それは多少伝わったような……どうだろう。

 そのあと自分は出かけたんだが、「ああ、やっぱりこの人は病気なんだ」と思った。文字にすればすばらしくわかりやすい「症状」だが、確信を持つまで23年もかかってしまったよ。そして自分の心が心配と不安でいっぱいなことに気づいた。かわいそうな人間だ……と感じていた。

 それとこういうとき心配するよりも放置して自己完結させてくれる男が私の父、母の配偶者なのだなと思った。そういう人間と生涯を共にする選択をして、母は自分の心の傷をだれにも触れさせないことで生きてきたんだなぁ。それで子供のころの精神的苦しみをずっと引きずっているのかな。その結果子供に自分の傷をそのまま押し付けたわけだ。ふざけんなよ。たまったもんじゃねえが、残念ながら私には見捨てられないのだ。



 ということでこの本のおかげでかなりいろいろなことが見えてきたし、自分の最終的な解決が、母親をなんとかしてやることにあることもわかった。

 しかし同書には「親(とくに母)が発達障害であったパターン」も書かれていたんですね。重めの発達障害、軽度知的障害の親は、子供に対して愛情の表明をできず、その結果子供は生きる方向性を持てずに社会と空虚な溝を抱えて生きてしまうというケース。その場合親をなんとかすることはできず、大人になってから乳幼児で本来発見するはずだった生きる意味の発見をするということが必要になるそうだ。

 文を読む感じ、現在の私はそれには該当しない。そのパターンの人は中心となる価値観が無いので、常人以上に社会に適応して、世の中が求める「まっとうな人間」を問題なくやってしまうという。それは私と真逆だ。

 ただそこに描かれていた「離人症的感覚」はすごく共感できる。自分の離人感覚を説明すると、ゲームでプレイヤーキャラを操作しているときのような、身体と精神の間に一個別のものが入る感じ。手を動かそうと思えば動くんだけど、その手の感覚が信じられない感じ。
 特に小学校低学年のころは離人症と白昼夢をよく見ていた。当時の思い出に、一時間目の授業中の離人症の感覚がひどすぎて(これは夢なんじゃないか?)と思って隣にいた友達に「これって(わたしが見ている)夢?」みたいなことを訊いたことがありました。そうしたら「たぶん夢じゃないと思う」って返されたんですね。それで今見ているものが夢じゃないって絶対には言いきれないんだなと思った経験がある。蛇足か。
ずっと謎だったけど、この本を読んで幼少期そんなだった理由の大きな部分が父親にあると思った。

 父親はそもそも発達障害者っぽいのだが、4、5歳のころ「この人は何を考えて、自分のことをどう思っているのか」疑問に思っていた。数年前に母に私が子供のころは父親は私のことをかわいがっていたじゃんと言われたが、一切記憶の実感がなかった。父親が家にいると、知らない人が家にいる感覚がものごころつく前からずっとある。
 それらに類似した経験談の母親版が、その本の離人症的に生きてきた人の話が語られていた。

 そう考えていくと、「心に鍵をかけて心の苦しみを表現できない母親」「子供に感情を伝えることができない発達障害の父親」の間に生まれた発達障害者が自分なのではないかと大枠が考えられる。

 そしてその形質を自分も継いでいるなあと思う。母親の形質を継承した結果として、精神的につらいときでも絶対に鬱ツイとかしちゃだめだぞって観念がある。他者に自分の弱さを見せることは許しがたい行為だと思ってしまう。他人の鬱ツイとか苦しみの表明ツイートへの抵抗感も人より高い気がする。頭では理解していても「そういうツイートずるいぞ!」って思っちゃいますね。
 まあこれは2ちゃんのクソスレでネット文化を学んだので「掲示板やSNSは非人間的なくだらなさに充ちていてほしい」という概念の影響もあるのだが、そもそも場を問わず他者に自分の弱さを見せづらいし、相手が自分の弱さ苦しさを露呈してくるのも好きでない。最近は緩和されたが。

 それと人間関係をうまく築けなかったりしてしまうのは父親に似てしまっているのかなと思う。まあこれは明確な形をとっていないので、結びつけるべきではないと思うが、継承しているんだろうなとは思っておく。
 このまえはてブで書いたとおり、父親はトランプ陰謀論にハマっているのだが、そうした「強そうな人間に無思慮にあこがれちゃう心理」も、対人能力の低い発達障害的なふるまいとして理解できるかもしれない。ってことはそういった感覚は自分にもあるのかな……。なるほど対面の関係を倦厭する気持ちは自分にもある。

 ただそうした形質はいろいろ緩和されていると思う。読んで面白いかはわからないが、こうして内面の話を公開文書にすることもできるようになったし、友人を傷つける回数も減ったと思う。楽しく生きられるようにしたいね。

 しかし、親について心を砕いていると、まったくもって愉快な気持ちにならない。理解がふかまった結果、親に対する感情の起伏もはげしくなってしまった。ゲームのための絵を制作しているのだが、うまく筆が乗らない……。私は理性的に動きたいのにそれができなくなるのがもどかしい。スイッチを切り替えねば……。



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