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「コロナは同性婚への神罰」はキリスト教としておかしいのか?

 コロナは同性婚に対する神罰だ!と言ったウクライナ正教会キエフ聖庁のフィラレート総主教がコロナにかかるという、寓話っぽいニュースが話題となりました。ややこしい肩書きですが、この人はウクライナの最大宗派(信徒1500万人)のトップです。

 何とも皮肉なはなしですが、聖書を読むとそれほどおかしくはないのではないかと思います。旧約聖書にかかれる神罰というものは割と広大で、一部の悪しき人のためにたくさんの人間が死ぬ、みたいなことが平然とあります。つまり”悪しき”同性愛者のために"正しい"総主教が疫病にかかるということも大いにありうるということです。

 有名どころだとノアの箱舟とかもそうですし、出エジプト記では悪いファラオのためにエジプト中の赤子が(牛や羊まで)死に絶えます。護られるべき契約の民(信者、ユダヤ人)も、良くない王を懲らしめるために、国を滅ぼされたりしています。これ全部父なる神のしわざです。

 という感じで聖書の原理的に言えば一部の存在を罰するために、それをとがめていた人を含む大量の人間が死んだりするというのは、キリスト教およびユダヤ教の観点から行くとだいぶ正しいのです。
 そして聖書は明確に同性愛を否定しています。だから、この総主教のいうことはコロナに罹患したとても、キリスト教原理的に間違っていることにはならないのです。あとで撤回するかは知りませんが。

 さて、もちろん言うまでもなく、数千年前の古代民族の経典に従って多様性を認めないのはどうしようもなくズレた思考です。

 でもそれって宗教者としては正しいように思います。浮世のはやりよりも神のことばを信じる、それはキリスト教徒にとってもっとも求められる信仰のありかたです。

 現在のキリスト教の大半の教会は、聖書を否定することはしていません。そんななかで同性愛者も救われるはずだ、みたいなちまちました解釈変更をつづけています。それは一見立派ですが、そうやって解釈を変更しつづけていくとマルティン・ルターがキレたときのように、キリスト教が聖書とかけ離れたものになっていくわけです。

 「まあ信条的に正しくても天罰とか神罰とか言うのはどうなの」と言う点は間違いないですね。いまそれ言ったって仕方ないし、混乱を広げるだけだろと。
 しかし、そもそもイエス・キリストが伝導をはじめたときの目的は「人類が堕落しているせいで神が世界を終わらせようとしている。悔い改めて善く生きろ」ってことを伝えるためですね。(まあいろいろあって世界の終わりは延期されたようです。)

 という感じで、神罰を語るのもおかしくない。というか神罰と救いを説いていくのがキリスト教聖徒の役目だったわけです。

 だからこの人のふるまいは主教としておかしいところはないと思います。おかしい存在がいるとしたら多様性に合わせて柔軟に倫理観を変えていくこの世界がおかしい、もしくは21世紀にもなって存続しているキリスト教がおかしい、そのどちらかではないでしょうか。

 というわけで宗教は根源的に悪ですね。表面上の倫理観を訂正するのはおためごかしでしかないです。

 仏教には「あくまでも教えは生きるうえでの苦しみをとりのぞくためのものでしかない」みたいな言葉がのこっていて、それなら許せるかも……という気持ちにもなりますが、最終的には念仏唱えて救われようみたいなところに行きついてしまうのでしょうがないですね。
 やはり神や仏に祈ることを棄てないと社会にねづく差別や不条理は根絶されないのではないでしょうか。そもそも聖書もクルアーンも暴力を否定してないですからね。古代ならともかく現在ではどう考えても消費期限が切れている。

 神の国も浄土もほろんだのだ……。

にょ