承認欲求のない創作とはなにか

どうも、しがない文字書きです。
フォロワー200人もいないのになんかだらだら文章書いてる人間が言うからこそ多少根拠のある話を書こうと思う

近年「承認欲求強すぎて創作できない~」「一人で書くなんてできない~」みたいな議論が多いので、それについて書く。

ぶっちゃけ、先に言っておくと、承認欲求だけをめちゃくちゃ求めるやつにとって、僕のようなたかだかフォロワー200人(しかもだいたい知り合いの相互フォローばっか)でしかもバズりにくい文章とやらを2年以上ダラダラ書けるかというと、狂気の沙汰だと思う。

これは同類の先駆者たちをバカにする意味はないのでご留意いただきたい。あくまでも「承認欲求だけを求めるやつにとって」であることをお忘れなきよう。

それを続けられか否の差は、たぶん承認欲求ではない。
マジで自分のために創作やっているかどうかだと思う。
これは精神論とかじゃなく、自分の話で言うとかなりどストレートに自分のために文章書いてて、自己分析のために小説もnoteも書いている。
このnoteもまぁ多少どこかの誰か読んでよーってのはあるけど、本筋は自己分析のために書いているフシが大きいので、このnoteがバズらないことによるダメージはほぼない。だって書いた時点で自分の自己分析の為になってるので。

文章を書くきっかけ

自分はそもそもかなり頭の中で色々と考えがずっと張り巡らされるタイプで、小学校からアイディアが思いついては出て思いついては出て、ずっとワーーーーッと思いつくアイディアを話したりしていた。
が、そんなよくわからないアイディアのマシンガントークを聞いてくれる人がいるのは小学校まで、中学にいくとだいたいの人間が聞いてくれなくなる。

そうして行き場のないアイディアが脳内にめちゃくちゃ溜まった。

それをぶつける先がなくて、思いつくものをドカドカと書きまくる日記を書き始めたのだ。
一切推敲しない。全部勢いで書いて、ノンストップで書き直しも消すのもなし、全部残す。

で、ここで大事なのが、なんかこの日記を10年欠かさず続けてて……みたいな王道ストーリーがよくあったりするが、全くそんなことはない。
むしろバラバラ。二、三ヶ月に一回のときもあれば、二、三日連続で書くこともある。一年に一回の年もある。全然そんなマメにやってない。が、なんだかんだ高校に入っても地味に続いてた。
なぜならたまに読み返したときに、「こいつめちゃくちゃに書いたと思ってたのにおもろい文章書くな」とめちゃくちゃ思ったからである。
今思えば、自分の思考にあふれる話を書いているのだから、自分は理解しやすいし、自分がおもろいと思うのは当たり前である。
ただ、それを一旦吐き出して、しばらく放置しておくと、まるでそれが他人みたいに見えて、え何この他人やるやん、え、俺!!?うま!!!!!!となるわけである。
そんなかんじで、最初は完全に自分の半分ストレス発散から始まったのである。

しかし考えても見てほしい。
これをハナッから今で言うTwitterや他SNSに公開してたらどうだろうか。
「は?意味わからん」
「文章ぐちゃぐちゃで何?」
「自分で天才とか言ってて草」
とか、たぶん滅多打ちである。肯定されない。

自分一人で自分のために書いて、自分で読んで満足していたので良かったんだと思う。

で、ここですっかり自分の文章に謎に自信がついて、ちまちま文章書いて公開したりしだして、モバゲーでSS書いたりしてた。

でもまぁこのあたりからしばらく迷走する。
なぜなら承認欲求を求めだしたからである。

ハッキリと覚えてはないが、このあたりで「人に読まれる文章を書こう!!!」と躍起になりすぎて、だんだん「これ読まれる…?」「いや読まんやろこれ…」みたいなかんじで、アイディアが出ては消え、書いては消して、書いても一話で終わりになり、を繰り返した。

そんでしばらく「なんとなくは書いてるものの完成しない」みたいな低迷期が続くことになる。

そしてまぁぶっちゃけそれは今でも続いている。
全然完成しない。
勢いで数時間過集中で書けるものなら完成するが、その後の勢いがないので、めちゃくちゃ長い小説は書けない。

自己分析のための創作とは

まぁそんなノリでも続けているのは、根幹に自分が書いててオモレーってもの書いてるのと、あと自己分析のために作品使うのオモレーってかんじで書いているのがデカイ。

基本的に、自分をそのまま分析しそのまま公開するのにはリスクがある。

このnoteは自分の厄介オタク感情を分析するために書いた。が、かなり自分を否定してかなり予防線を張りまくったつもりだが、それでも否定的なコメントは来た。
自分を直接的に書くことは、否定されたときにまぁまぁダメージを食う。
なので僕は基本的に自分を肥大化させた存在を作品に書く。
例えば、自分が「ちょっと人を頼らなすぎることが多いな‥…」という悩みがあるとして、それを膨らませていって「抱え込んで抱え込んで、鬱になって誰にも頼らず引きこもってるキャラ」を書いたり、あるいはそれに近しい原作キャラになりきって二次創作を書いたりする。自分から発せられるキャラだし書きやすいし、自己分析にもなるから自分のために書ける。
そして、そこでそのキャラに批判がきて「なにこいつ鬱でウジウジしよって」と言われてもそれは僕ではなくキャラへの批判だしスルーできる。逆に「このキャラ、〇〇とかできればもっと楽になれるのに」みたいな為になりそうなコメントだけちゃっかり自分のものにして吸収する。とかできるのでわりかし便利だ。
あとは、自分の人に見せづらいところであれば、ただそれを吐き出せただけでもスッキリするし、それをキャラクターの殻に隠れて吐き出すことができる。

ただここから難しいのが、そこのバランス(自分のため/人に見られるため)は大変難しいのだ。
この文章はかなり自分のために書いてるのでかなりらくらくスイスイ文章が出てくるし、これでバズったらラッキー!くらいに思ってる。
ただ二次創作だと当然原作との整合性とかも気になってしまうので、そうそううまくいかない。
当然ながら、キャラの完全にガワだけ借りての自分語りなんかしたら「テメーの自分語りなんかすなー!!!!」ってなるに決まっている。
なので僕もそこを模索しながら書き続けている。

いまんところ原作に登場しないモブを書くほうが気楽だしスイスイかける。

シャニマスの斑鳩ルカというキャラに作品内で反応するルカのファンたちの二次創作

シャニマスにはプロデューサー(顔がないキャラ)がいるが、そのキャラクターの元カノを想像した話(は?)


まあそんなこんなで、ぶっちゃけいまだに「自分がスイスイかけてたのしい作品ってどんなだろう」とウロウロしながら書いてる。たぶんこれがちゃんと合致したときが一番創作が楽しくなってたくさん生み出せるときなんだろうけど、まだそこは探しながら創作をしているような感じである。

ただ、先にもあげたように、これらは全部自己分析の延長線上にあるので、最終的にこれらが大バズして本が売れまくって大行列壁サーウハウハ、なんてことにならずとも、出した時点で僕は得をしている。
そういう作りになっている。

当然ながら僕のやり方は少数派だろうが、言ってないだけで皆が皆だいたい「書いて作り上げた」時点である程度は得するようななにか想いを持って書いている。イラストでもだいたいそうだと思う。

なので、なんかこう、ふわふわした精神論で「た、たのしく思わなきゃ……」「承認、求めちゃ駄目だ………」ってなるよりかは、マジで「自分がなんのために創作するか」を考えた方がいいし、「自分のための創作」が何なのかを考え直したほうがいい。
自分の感情が承認欲求100%しかないのなら多分解釈とか無視してズカズカと知りもしないジャンルのキャラを勝手に使って勝手に政治だの時事ネタ勝手に盛り込んで作品作ってを繰り返すこともするだろうが、世の人間の全部がそうはなってないのは、多分承認欲求よりもどっか創作でやりたいこと、自分がやりたいことがあって、しかもそれは他人に公開しなくても成り立つなにかである。
そうでなきゃ、反応も貰えない長きに渡る苦痛に耐えられない。

んでそれは結局自分で探すしかないので、僕は作りながら探してるし、こういうnote書きながら探してる。

現にこれ書いてて、「あれ?俺案外全然かけてないと思ってたけどなんだかんだいい方向いってんじゃん」「へーそんな考えなんや」と書き終わってようやく気づいた。

はい、この時点でもう俺の勝ち!得してる。
この状態で公開すればバズればラッキー、外れても自己分析出来てプラスですでに収支プラス。

そういう創作を今一度考え直してみるのが一番いいし、それは他人に聞いたところで一生わからない。自分で練りながら足掻くしかないので、「そんなこと言ったって書けないもんは書けないンダヨォ!ミサトサン!ミサトサン!タスケテヨォ!」ってダダこねるだけのシンジくんは一生ダダこねてて。
ただ、足掻いた分だけ前には進むと思うので。
下手なりにみんな足掻いていきましょう。なるだけ一人でね。

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