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『大きくもなくノッポでもない古時計』

もう大昔の話だが、私も大学を卒業する際にはそれなりの卒論を書いたのだ。

そのゼミの卒論にはテーマや主題などといったうるさい決まり事はなく、書く人本人の全くの自由裁量だった。適当な日記でも書いて提出しておいてもよかったのだが、私は何故か『大きな古時計』という誰でも歌えて超メジャーな曲の歌詞を卒論のテーマに選んだ。我ながら妙な選択をしたものだと思う。音大生でも芸大生でもないのに本当にどうかしていたなと思う。

私の書いたその卒論の内容は、全くもって実に下らない。

「おじいさんが生まれた朝に買ってきた時計さ」

時計屋ってそんな朝から開店しているものなのか?
今はコンビニで買えるけど、あの時代は何処にでも売ってるような安価なものではなかったよな?
これは何かの“暗示”なのでは?

そんな下らない批判というか、漫才のツッコミレベルの文章を織り交ぜた論文を書いて提出した。
学生時代はユングやフロイトの本ばかり読み漁っていたので、暗示をキーワードに無理な論理展開を積み重ねながら駄文で枚数を稼いでいった。

「こんな拙い作文、読まされる方は悲惨だろうな」

そう思いながら書いていたが、実際書き終わってから読み返してみると、なかなかどうして、想像力に富んだ画期的な内容に当時は思えたものだった。

「時計の振り子は睾丸を暗示している」だとか書いてみたりもした。

振り子は1個しかないのに睾丸は2個あるからおかしいんじゃないかって?

大丈夫。安心したまえ。いつかきっと君にも振り子が2つに見えてくるから。

じいさんのアレはとにかくデカかった。ご自慢の一物で綺麗なお嫁さんまで連れて来た。そしてじいさんは死に、その一物も動きを止めた。

「ゼンマイを回せば動く筈なのに、これってやっぱりおかしくない?これは紛れもなく、古時計がじいさんの一物の暗示であることの証である」ってね。

作曲家のヘンリー氏が旅行先のイギリスで聞いた話が元ネタなのだとか。
そう言われると何となく納得してしまう。イギリス人はいつの時代もクレイジー。彼等の言葉の端々や行間にはいつでも必ず皮肉や仄めかしなどの含みがあって、全く油断も隙もありゃしない。怪しい国民性だ。

卒論の枚数は20枚。段々と書くネタもなくなってきて、世間に多々見られる暗示について思いつくままに書き連ねてしまっていた。

カッパは何故にキュウリを好むのか?

川遊びなどをしてオチンチンが縮こまる事の暗示。筏下りや大井川の渡し場など、川辺で水に入って仕事をする人も昔は大勢いた。夜に嫁さんに迫られたら、「今日はカッパにキュウリを食われたから勘弁して」と言い訳をした。

安倍晴明の母親が狐?

産後の肥立ちが悪くて発狂したとか、元から統合失調症の傾向があり産後に悪化したとか。
狐憑き、狸憑き、悪魔憑き、狼憑き、犬、猫、蛇、蛙、牛、馬などなど、日本には昔から色んな憑きモノがある。猫娘には絶対にモデルが居たろうし、砂かけ婆や子泣き爺にも居たろうし。

「せっかく20枚も書くのだから自分でも納得のいく論文に仕上げたい」という思いが、その時確かに心の中にあった。内容はふざけていたが気持ち的には案外真面目だったのかも知れない。論文の最後の方はグダグダだったが、教授の評価は悪くはなかった。

20枚という枚数はそれまで書いたことなどなかったし、書けるとも思っていなかった。小学中学高校と夏休みの宿題で必ず最後に残るのは、せいぜい2枚くらいの読書感想文だったのだから。
作文には漢字テストや数学の方程式のように決まった答えが用意されている訳ではない。私は作文が大の苦手だった。

大学を無事に卒業し、それから何年かして私は恋人と夏に河原でバーベキューをした。その時にカッパの話題が出た。

カッパは何故キュウリが好物なのか?選りにも選って何故キュウリ?他にもたくさん美味しい食べ物があるのに不思議だね。それはね、キュウリが男性器を暗示してるからさ。水遊びをした後はアソコが縮こまってしまうからね。カッパにキュウリを食われてしまった、なんて冗談を言い合ってるうちに、意味が変わってきてしまったのさ。

「じゃあ、頭のお皿は?」
「乾いてしまうと元気がなくなるものって?」

世界中のキュウリがピンピンしていることを願った。世界中の恋人たちが潤っていることを願った。キャンプファイヤーを見ながら二人の夜が更けていった。

私の家には柱時計なんて立派なものはなかったのだけれど、いわゆるボンボン時計という古い時計が壁に架かっていて、小学生の頃は毎日親がゼンマイを巻いて動かしていた。とにかくケチ臭い親で、古いモノには何でも価値があると思い込んでいた。お蔭で家も古くてボロいままだった。いつか値が上がるのだとハッタリをかましてはばからない親だった。

先日、家の物置を片付けていると、そのボンボン時計が出て来たのだ。早速ネットオークションで検索してみると、案の定ガラクタ同然の値段でしかなかった。
でも捨てずに取ってある。何故だがよく分からないが、今までその時計が残っていた事に心のどこかで感謝した。ボンボン時計の蓋の中には錆び付いたヘアピンが残っていたが、それでさえも捨てられずにそのままそこにそっとしておいた。
ずっと昔からその中に潜んでいた持ち主も不明なヘアピンに、妙な感慨を覚えてしまったのだ。あの錆び付いたヘアピンは何かの暗示なのではないか?今でも時々考えてしまう。

尚、『大きな古時計』を作詞したヘンリー氏はフロイトの影響など1ミリも受けていない。
フロイトの『夢判断』が世に出るのよりも20年以上も前に作られた曲なのだから。


おしまい

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