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【エッセイ】あのちゃん珍味説

カレーもラーメンも牛丼も、日本にはなかった料理だ。最初に日本に入ってきた時、それらの料理は珍味のようなものだったが、それがいつしか定番料理になっていった。
宇多田ヒカルやMISIAも、最初は珍味のような存在だった。聞き慣れない目新しい音楽だったが、すぐに日本の定番音楽となった。

一方、ウニ、イクラ、フグの白子は昔から日本にある料理で最初から珍味だったが、今までもこれからも珍味のままだろう。

タレントのあのちゃんはどうだろう?おそらく彼女もこのままずっと珍味のままだろう。カレーやラーメン、牛丼のような定番料理にはならず、ずっとフグの卵巣の糠漬けのような存在なのだろう。

彼女の耳障りな歌声と個性的なキャラクターは、カレーの福神漬けやラーメンのネギ、牛丼の紅生姜のようなものなのか?いや、やはり彼女は珍味だ。福神漬けやネギ、紅生姜は欠かせないが、あのちゃんは誰にとっても付き物でも箸休めでもないのだから。

人間の欲求や願望は、料理や音楽のジャンルのように複雑で多様だ。『歴史の終わり』などで知られるフランシス・フクヤマの著作では、承認欲求や優越願望、平等願望が社会や歴史を動かす重要な要素だと述べられている。
しかし、それだけでは人間の全てを説明することはできない。人間には理論では割り切れない感情や直感があり、それが人生を豊かにしている。あのちゃんのような珍味的な存在の人気の高さは、承認欲求や優越願望、平等願望と関係しているのかもしれない。彼女のキャラクターが示すように、独自のスタイルや個性を持つことが、人生を豊かにする鍵なのだろう。自分自身の中にある「珍味」を見つけ、それを大切にすることで、より深い満足感と幸福感を得ることができるのではないか。

結局、私はどうなのだろうか。平等に扱われたいのか、優越感に浸りたいのか?そんなことは全く考えていないのではないか。あのちゃんだってそんなことは考えていないだろう。「自らの珍味性を高めることで、承認欲求を満たしたい」などと計算高く模索しながら生きている者などいるのだろうか?

なぜかそんなくだらないことを考えてしまった。何か大事なことを見落としているようにも思えるし、最初からどうでも良いことだったようにも思える。どうも釈然としない。

人は珍味など食べなくても生きていける。定番料理ばかりを食べている人の方が、合理的で賢明な人生の選択をしているようにも思える。だが、きっとそうではない。人生には珍味も時には必要なのだ。なぜそう言えるのか?
人間の心は定番だけでは満たされない。珍味は日常の中で新たな発見や刺激を与え、定番料理だけでは満たされない部分を補ってくれる。音楽やアートにおいても、珍味的な作品がもたらす感動や驚きがあり、それが人間の感性を豊かにする。珍味を楽しむことは、自己の幅を広げることにもつながる。新しい経験や挑戦を通じて人は成長し、より豊かな人生を送ることができる。だからこそ、時には珍味を味わうことが必要なのだ。

しかし、そうは言ってもまだ何か見落としているようにも思えるし、言葉が足りない気がしている。それだけではないような気がする。答えがもう少しで出せそうで、それでもやはり答えが出てこない。

本当のところ、こんなことはどうでも良いことだと思っているからなのかもしれない。正直、あのちゃんに関して私は殆ど興味がないし、彼女の活躍を期待してもいない。奇をてらったパフォーマンスに過ぎないと思っているし、直ぐに表舞台から消えて忘れ去られると予想している。身も蓋もないことだ。

ヨハネ福音書の冒頭に「初めにロゴスがあった」とある。まさにそれなのだ。承認欲求や優越願望、平等願望など、そんな言葉は昔はなかっただろうし、現代社会においてもそんな願望のことなどほとんどの人が意識しないで生きている。

そして、優越願望は男性に多く、平等願望は女性に多い。テストステロンやエンドルフィンの作用なのだろう。

だから結局何なのだ?私はどうしたいのだ?優越感に浸りたいのか?平等でいることに幸せを噛み締めていたいのか?一体私は今まで何を求めて生きてきたのか?これから何を求めて生きていきたいのか?

「くだらないことなど考えるな」ともう一人の私は伝えたいのだろうか。「よくそこまで考えた」と誉めてくれるのだろうか?

私の心はずっと沈黙したままだ。

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