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【少年野球】「監督は絶対」が続く理由(1)

 地域に根ざした普通の少年野球チームに子どもを入れてみて、そのあまりに前時代的な文化に驚いた親は多いだろう。
 その最たる例として「監督は絶対」という考え方がある。
 監督の選手起用や采配には誰も口出しすることは許されず、コーチも選手も親もただ従うのみ、という考え方だ。

 もちろん、チームスポーツには誰かひとりをトップに据えた指揮系統が馴染む。その意味では少年野球の現場が「すべての決定権をもった監督」によって仕切られ、皆がそれに従うという組織図になるのは仕方がない。

 しかし、「誰も口出しすることは許されない」というのはどうだろうか。
非常に前時代的で軍隊的だ。
 
 私はその是非を問う前に、そうした軍隊的な文化が少年野球の世界に今も続いている理由について考えたいと思う。
 というのも、いらないものは淘汰されていくのが自然の摂理である。残っているということは、それを良しとし、変革を望まない人々がその文化を継承し続けているということだからだ。

 では「監督は絶対」という軍隊的秩序を守ろうとする人間は誰か。それによって得をしたり、良い気分でいられたりする人は誰かと考えたときに、実は「親」の中にも、現状を変えたくない人がいることに気づく。

 それはレギュラーの親、ひいきされている子どもの親だ。

 自分の子どもが常にスタメンで試合に出場し、チームの中心として活躍している親の多くは、そもそもチームに対して大きな不満を持っていない(注:不満がある場合もある。それは別記事にする)。
 監督にひいきされ、かわいがられている子どもの親も同じだ。むしろ「監督は絶対」という文化によって恩恵を受けているのだから文句など言うはずもない。

 つまり、少年野球の問題点に気づいて腹を立てるのは、たいてい報われない子どもとその親ということになり、いくら正論を説いてもそれは嫉妬やひがみだと思われ、親同士、子ども同士でも一体になれないという構図が続いてきたのだ。

 では、監督やコーチはどうか。

 監督は当然、皆から持ち上げられて良い気分に決まっている。しかし、コーチはなぜ黙々と監督に従うのか。

 実は「監督は絶対」という軍隊的秩序は、性差別的発言にはなるが、男性社会に良く馴染む。外敵(他のチーム)から身を守り、かつ攻撃する(試合に勝つ)ための組織を、それぞれのポジションがしっかり仕事をこなして運営するという分かりやすいミッションが男性は本能的に好きなのだ。

 その際、多少の犠牲が伴うことは仕方がないと考える。その犠牲とは組織の末端にいる子どもたちである。

 だから「特定の子が試合に出られない」といった個人的な犠牲は、外敵に勝つためにはやむを得えないという思考になる。むしろそうした個人的な犠牲に対して不満を持ったり、感情を出してくる親子は、組織運営の邪魔になるという思考になるのだ。

 (2)に続く

 

 
 


 

 
 
 


 
 

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