見出し画像

尾張藩附家老「竹腰正信」

相応院「お亀の方」長男。

竹腰 正信(たけのこし まさのぶ)は、尾張藩付家老。はじめ正次のち正徳、さらに正信と改める。幼名は万丸、長じて小伝次と称した。尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖。美濃国今尾藩初代当主。初代尾張藩主・徳川義直の異父兄。

竹腰正時の長男で、母は志水宗清の娘(お亀の方)。正室は大久保忠隣の養女(孫)の春。子女は、竹腰成方(長男)、竹腰正晴(次男)、竹腰正辰(三男)、石川正光継室。幼名は万丸、小伝次。別名は正次、正徳。

文禄3年(1594年)に実母・お亀の方が徳川家康の側室となり、翌文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、異父兄である正信も召し出されて近仕し、翌年に甲斐国に5,000石を与えられる。

家康が大御所となって駿府に移ると本多正純・安藤直次・成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下山城守に叙任されたほか、継嗣のいないまま死去した当時の尾張藩執政・平岩親吉に代わって22歳で執政に任じられ、名古屋城の普請を監督。

翌年には将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜ったほか、元和5年(1619年)には義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃の今尾を居所とした。 以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。

竹腰氏祖の重綱は江川大原荘十五か村の城主、子重吉は濃州大垣城主となり六万石を知行、その子重時と孫の助九郎光昌はいずれも美濃斎藤氏に仕えた。斎藤氏滅亡教、山城国紀伊郡八幡山にて正信が生まれた。祖父に養育された正信は、文禄三年から家康に仕え殊遇をうけ、慶長十二年の駿府城出火の際には病臥の家康を抱えて庭に連れ出し、小屋の棟木を抜き火を消したと『新訂寛政重修諸家譜』は記す。その後、成瀬正成とともに幕府より尾張藩の監督役たる付家老を命ぜられ、尾張藩祖徳川義直を補佐し、藩政および名古屋城築城のことを司ることになった。竹腰家の知行高は三万石で、成瀬家につぐ家柄として幕末まで累代にわたり藩政をみたのである。正信は、正保二年四月晦日、名古屋にて没す。享年五十五歳。法号を正信院安誉道輝という。

写真は、名古屋市千種区平和公園内にある墓所。(相応寺領域)

画像1

#ゆたかさって何だろう

歴史の舞台に思いを馳せて、ぶらりと散策するひととき。


生誕 天正19年1月21日(1591年2月14日)

死没 生保2年4月30日(1645年5月25日)

別名 竹腰正次、正徳

戒名 正信院安誉道輝

墓所 愛知県名古屋市千種区

   京都府八幡市

   栃木県日光市

父母 竹腰正時、お亀の方

兄弟 石川光忠、徳川義直

よろしければ、サポートお願い致します。