松平忠吉の菩提寺「性高院」
「性高院」(しょうこういん)は、徳川家康公の四男「松平忠吉」(まつだいらただよし)の菩提寺。
1589年(天正17年)に松平忠吉が母宝台院の菩提を弔うために満誉玄道を開山として創建された。
1603年(慶長8年)に清須へ、1610年(慶長15年)の清洲越しで中区門前町(現在の名古屋中郵便局付近)へ移転。
1636年(寛永13年)に朝鮮通信使が性高院で休憩所として泊まったとされ、1795年(寛政7年)に性高院殿廟が建立された。
昭和初期に末森山へ、さらに1943年(昭和18年)に軍用道路計画の為千種区の現在地へ移転した。
しかし1945年(昭和20年)に名古屋大空襲により国宝の表門以下伽藍を全焼の他、朝鮮通信使等の資料も焼失。
戦後以降も現在地にあったが1999年(平成11年)に8階建てのビルが建てられ、現在のビル内に本堂が再建されることとなった。
8階建てのビルの1階にある「性高院」
本堂の本尊。
松平 忠吉は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。
東条松平家第4代当主、尾張清洲藩主。江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の同母弟。
徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。
遠江浜松城下(現在の静岡県浜松市)に徳川家康の四男として生まれる。
天正9年(1581年)、東条松平家第3代当主の松平家忠が病死すると、その家督を継いで三河東条城1万石を領し、祖父・広忠と父・家康の一字をそれぞれ拝領して名を松平忠康と改める。
天正10年(1582年)、駿河沼津城4万石に転封される。
家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵忍城主となり10万石を与えられ、元服して忠吉と改める。
関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)天正16年~18年正月18日、徳川家康が出した消息には忠吉から小袖を送られた感激を表す一方、怠りなく学問に励むように諭している。
短いやりとりのなかに父子の情愛が表れているもので、当代の子育ての一端を語ったものとして意義深いものである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、手傷を負うも島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。
戦後、尾張および美濃に清洲52万石を与えられる。慶長9年(1604年)には、下間仲孝に能楽の秘伝を学んでいる。
しかし病に侵され、同年5月に但馬へ湯治に向かう。
慶長10年(1605年)4月には左近衛中将にも任官するも、10月には腫物を患い、12月には危篤状態に陥るが投薬により蘇生する。
慶長11年(1606年)に下野守から薩摩守に遷任する。
4月16日、上洛中の家康に対して側近の村越直吉を介して筍を送っており、家康の機嫌を損ねることのないよう進上の際には入念な配慮を頼み、奥を仕切る阿茶局にまでその心持ちを伝えている(武州文書)。
これは家康に対して畏怖の念を抱くと同時に大事に思っていたことの表れである。
病は治らず慶長12年(1607年)に江戸へ下向し、家康・秀忠と面会した数日後の3月5日に死去、享年28。法号は性高院殿憲瑩玄伯大居士。
小笠原吉光ら4人が殉死した。
殉死者の名前が刻まれた墓碑。
忠吉には嗣子がなく、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直)が継いだ。
このため尾張徳川家の什宝を収蔵する徳川美術館には、忠吉の武具も収蔵されている。
また、同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれている。
マンションの駐車場の一角にある「性高院」の墓地。
看板がないと通り過ぎてしまいそうだ。
400年前の歴史に想いを馳せて、先人を偲ぶひととき。
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