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徳川義直公傅役「山下氏勝」

尾張藩祖「徳川義直公」傅役。相応院「お亀の方」の妹婿が「山下氏勝」(やましたうじかつ)。

清洲越しを徳川家康に進言したのが山下氏勝である。

氏勝が進言しなければ、愛知の県庁所在地は清洲だったかもしれない。

氏勝3

幕府役人。姓は藤原、幼名万寿丸、のち半三郎。山下大和守時慶の子として、永禄十一年四月六日、飛騨荻町城に出生。先祖は鎌足十五世孫下野大掾政光であった。壮年になり徳川家康に仕え、小田原の役に先鋒を務め、文禄慶長の役では名護屋に随行した。近江国蒲生郡に領地をもらうなど特に目をかけられ、慶長七年家康の九男で尾張藩祖となる義直の傅役に任ぜられる。

義直の母相応院が氏勝の妻の姉であったことからの命である。慶長十二年義直の尾張藩入封の際、軍備上のことなどから居城を清須より名古屋へ移すよう家康に進言、認められ、世に言う清須越しが決定された。尾張藩士としては馬廻組頭を命ぜられ、歩行、鉄砲足軽を統割し、義直を助けた。

また、大坂夏の役では功績が高く認められ、尾張藩士で唯一、家康より五百石の加増を受けた。元和九年饗応惣奉行、寛永六年惣奉行、同十年大寄合組頭を歴任するが、寛永十九年眼病を患い失明したため、その子氏政に家督を譲り隠居、剃髪し道智と号した。家康の側室で、義直の母相応院の妹である志水加賀守宗清の女を妻に、長男氏政をはじめ氏忠、氏紹、秀氏、時氏の五男三女をもうけた。承応二年十一月二十日死去。法名を光遠院道智日賢という。

氏勝6


生誕 永禄11年4月6日(1568年5月12日)

死没 承応2年11月20日(1654年1月8日)[1]

別名 萬壽丸、半三郎

戒名 光遠院道智日賢

主君 内ヶ島氏理→豊臣秀吉→徳川家康→徳川義直

父母 父:山下時慶、母:内ヶ島氏

妻 隆正院(志水宗清娘、相応院妹)

子 氏政、権之助、氏紹、秀氏、時氏

墓所は、名古屋市千種区平和公園法華寺墓地

氏勝4

氏勝5

#ゆたかさって何だろう

歴史の舞台に思いを馳せて、ぶらり訪れる平和公園の散歩。



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