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尾張徳川家第8代藩主「徳川 宗勝」

知り合いの社長が管理する長野県王滝村のキャンプ場に「徳川宗勝」の歌碑があり、調べてみることになった。

「徳川宗勝」は尾張徳川家第8代藩主である。

尾張藩第7代藩主は、有名な「徳川宗春」である。
木曽の地は尾張藩の領地だから、視察の折りに詠んだ句の碑であろうと思われる。


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さて、松平君山の句碑の隣にあった「徳川 宗勝公」の句碑。

くれかかる みさかは雪に うづもれる 嵐の末を 松に残して

夕暮れ時の神坂に雪が降り積もる。そして松には、昨日の嵐の跡が窺える。

この「みさか」とは、神坂村(みさかむら)のこと。

神坂村(みさかむら)は長野県南西部にあった西筑摩郡(現在の木曽郡)の村。2005年2月13日以降、旧村域全てが岐阜県中津川市の市域となっている。

1958年10月15日に岐阜県中津川市に、村域の大半が越県吸収合併されて消滅している。

島崎藤村の出生地である馬籠宿のある馬籠集落は1958年10月13日まで同村であり、1958年10月14日に隣接する山口村に編入されている。

江戸時代は木曾谷全域が尾張藩領となり、木曽代官の山村氏に統治される。


徳川 宗勝は、尾張徳川家の尾張藩第8代藩主。御連枝川田久保松平家第2代当主、高須藩四谷松平家の第3代藩主でもあった。

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川田久保松平家初代・松平友著(尾張徳川家第2代当主・徳川光友の十一男)の長男で、母は側室の湯本氏(繁、円珠院)。尾張徳川家第4・6・7代当主である吉通・継友・宗春兄弟の従弟に当たる。正室は第4代藩主・徳川吉通の次女・三姫(宝蓮院)。側室は倉林氏(すめ・寿光院)・馬場氏(とせ・清光院)・寺嶋氏(そよ・仙宥院)と多数。

幼少時は祖母の縁者・鈴木重兵衛のもとで養育された。その後も低身分の役人の下で幼年期や青年期を過ごした。幼名は代五郎、のち友相(ともすけ)、友淳(ともあつ)と名を改め、享保17年(1732年)、尾張藩の支藩・高須藩の松平義孝の養嗣子となってその跡を継いだ。高須藩時代は松平義淳(まつだいら よしあつ)と名乗る。しかし、元文4年(1739年)正月13日、尾張藩主であった従兄の宗春が将軍・徳川吉宗によって強制的に隠居させられると、その跡を継いだ(厳密には宗春の養子となったわけではなく、一旦収公された藩領を宗勝に下す形で尾張藩を継いだ)。高須藩主は三男の松平義敏が継いだ。のち将軍・吉宗から偏諱の授与を受けて宗勝と改名する。

この頃、宗春の放漫財政によって尾張藩の財政窮乏化は深刻化していた。このため藩主となった宗勝は、藩財政再建を主とした藩政改革を試みる。自ら倹約を率先して行い、領民を苦しめないために増税を行なわないという、いわゆる緊縮財政政策を採用したのだが、これが成功して藩財政は再建されることとなった。[要出典]ただしこれには、先代・宗春の頃に築かれていた基盤があってこそという意見もある。

ともあれ宗勝が名君であったのは明らか[要出典]で、布施蟹養斎を登用して藩校・明倫堂の前身となる学問所を創設、さらに様々な文化的書物の編纂の他、刑法の整備などもおこなっている。刑法の整備においては寛容な一面がある一方、盗賊取締りのために死刑制度を復活させるなどの厳しい一面もあった。

先代藩主に宗春がいたためか、宗勝の影は薄いが、尾張藩の名君の一人とされる。

宝暦11年(1761年)6月22日、57歳で死去し、跡を次男の徳川宗睦が継いだ。

15男11女という子宝に恵まれた人物であり、八男・竹腰勝起を通じて、藩祖・義直の男系子孫が現在も続いている。さらに五男・松平義当を通じて、現在の徳川宗家に血脈を伝えている。


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