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鹿

鹿は列車を先導していた。

誰に命令されたわけでもなく、といって自らの意思でもなく、単に結果として、鹿は列車の前を歩いていた。

鹿というのはそもそも気まぐれな生物だ。草を食んでいたかと思えば跳ねまわり、ぴょんぴょん跳ねていたかと思えばキョロキョロし、かと思えば空間のある一点をじっと見つめ、そうこうしているあいだにウンコをする。

「お前、鹿みたいな奴だな」というのは『勝手気ままな自由人』という意味のときもあれば、『ウンコたれ野郎』という意味のときもある。どうとらえるかは言った側言われた側双方がそれぞれに考えればいい。

鹿は落ちた木の実を食べることに集中していた。下ばかり見ていたせいで森を抜けたことに気がつかなかった。地面に落ちている木の実がやけに少ないとようやく気づいたとき、同時に線路にも気がついた。

次に列車の警笛に気がついた。列車の運転士は、なにもわざわざ鹿に警告したわけではなく、カーブに差し掛かる手前だったからマニュアルに従って警笛を鳴らしただけのことだった。つけ加えると、『業務中に鹿をはねても気にしない』というのもマニュアルにあった。

警笛に一瞬驚いた鹿だったが、興味はすぐに木の実に戻った。線路のあいだに木の実が落ちていたからだ。鹿は線路のあいだを歩くことにした。

鹿をはねても仕方がないとはいえ、『進路妨害する鹿を故意にはねてもよい』とはマニュアルのどこを探しても書いていなかった。運転士は仕方なく速度を落とし鹿のうしろを進んだ。

鹿は木の実に興味をなくしていた。もともとお腹が減っていたわけでもなかった。食べ物を見つけたら食べる、というのが習慣化しすぎていて脊髄反射的にどんぐりやら松ぼっくりやらを口に入れてしまうのだった。

鹿は歩くことにした。枕木や石の感触が蹄に快かった。

列車はのろのろと鹿の後を追っていた。運転士は鹿の尻を眺めていた。案外尻尾がふさふさしていると思った。

うしろの客車に乗っていた客のひとりが鹿に気づいた。乗客は急いでスマホのカメラを窓の外に向けた。しかしいまいちインパクトに欠ける。せめて角でもあればいいのに。

運転士はとっくに自分のスマホで鹿の尻を録っていた。

「ママ、馬がいるよ」と言ったのは通りかかった車の助手席に乗っていた女の子だった。学校から帰ってくる兄の出迎えに駅まで行くところだった。それが兄の乗っている列車とは知らず、鹿という生物がいることもまだ知らず、『馬』が線路にいたことに興奮していた。

ママは馬に気づかなかった。というよりほとんど無視した。馬を飼えるほどの土地があるわけがない。息子が乗っているであろう列車の速度はやけに遅くてあっという間に追い越してしまった。娘は興奮気味にウマウマ言っていた。いるとしたらせいぜい鹿がいいよころだ。だとしたら大して珍しくもない、と内心愚痴ったが娘のために笑顔は作った。

鹿は飽きなかった。カツカツと木の板を叩いて歩くのが気持ちよかった。

列車の遅延に文句を言う乗客はいなかった。遅れることなど珍しくないからだ。だからうんざりしていた。ただ、のろのろ運転の原因がわりと珍しい出来事だと知る客は少なかった。疲れた客の大部分は、現実逃避も兼ねて、目を瞑っていたからだった。

運転士は乗客の不満など気にならなかった。客の対応は車掌の役目だ。自分の仕事はA地点からB地点、そしてC以下の地点へ客や荷物を運ぶことだ。まして鹿の相手など自分の仕事のはずがない。というわけで、列車はひたすら鹿の後を付け回した。

鹿はまぎれもなく『鹿みたいな奴』だった。鹿は突然立ち止まり、首をまっすぐのばして遠くのどこかを見つめ、ウンコを撒き散らしたかと思うと急に跳ね上がって線路からとび出し、そのまま森へ跳んでいった。

運転士は列車の速度を上げた。そしてすぐに速度を落とした。

列車は次の駅に到着した。誰もが待ちくたびれていた。馬を見てきたらしい女の子だけが母親のそばで跳ねていた。

鹿は木の根元にたくさんの木の実を見つけた。木の実をたくさん食べた鹿はたくさんウンコをしてまた木の実をたくさん食べた。

列車はふたたび動き出した。定刻よりも二時間遅れていた。客は気にしないだろうが会社にはどう報告したものか。とりあえずクソして寝たい。運転士はそう思った。

鹿のせいにしよう。運転士はそう思うことにした。

やっぱりなんか食べたい。運転士はそう思った。

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