見出し画像

日本の固有柑橘種「橘」に会いに行ったら、そこが自分の領地だった話。

奈良に橘がある。そう聞いた私は奮い立って奈良にすっ飛んでいったのが、7月の終わり。大和蒸留所さんのジン造りを見学した後に、早速橘畑の見学ができないかと伺うと、快諾していただけた。何せ絶滅危惧種である橘のこと。分けて頂ける物なのかまで理解するほど、当時の私は橘について知識を持っていなかった。

時は満ちて12月初旬、ついにその機会を得たので早速、奈良天理は柳本にある黒塚古墳へ向かった。今まで幾度となく待ち合わせをしてきた中で、古墳で待ち合わせというのは初めてだった。黒塚古墳駐車場はファミリーマートの敷地内にあり、そのコントラストにこそ、寧ろ古代のロマンを感じずにはいられなかった。

ほどなくして停車した軽トラックからは、「大和橘」という語感の持つ、厳粛で、ともすれば親しみにくいイメージを払拭するような、親しみやすい男性が現れた。なら橘プロジェクトを主導されている、城(じょう)さんだ。初対面なのに、親戚の集まりで一度お酌したことがある。そんな錯覚に襲われた。

「織田です」名刺を差し出した刹那、城さんは刮目し、その名刺を仔細に眺めた。「織田さん」「はい」「この辺りは織田家最後の領地ですよ。ご存知ですか?」全く知らなかった。城さんの言う織田家とは、当然あの織田信長の末裔が治めた領地だと言う事だ。歴史に暗い私はそんなことも知らなかったのだ。

祖父からは織田信長との関係が、遠縁だが存在すると聞いていたが、さほどそのことに関心を払わなかった私は、今までそのことについて少しも調べたことがなかったのだ。城さんの話によると、織田信長の弟であった織田有楽が、慶長5年(1600年)に戦功を挙げたことにより、三万石を賜った。そのうちの一万石がその五男尚長に分与され、これが柳本藩として、明治4年の廃藩置県まで、織田家に治められたとのことだった。これには流石に吃驚した。

何気なく橘があると聞いて行き着いたのは、自分の祖先…かもしれない織田家の領地だった。「織田さんは、ここに呼ばれて来たんだよ」笑う城さんの言葉に、私も深く頷いていた。

城さんの畑は黒塚古墳からほど近い、山道を降りたところにあった。畑の奥には、日本書紀にも書かれた、日本最初の道、山の辺の道がある。歴史と言うと、何かと私の住んでいる京都が話題に上ることが多いが、それは無知だと知らしめるほどに、奈良の歴史は古い。「この畑の下も古墳なんですよ。石棺が下にあるから、水捌けもいいんです」と城さん。「上に橘を植えてもらえれば、墓の主も喜んでいるでしょう」と応えた。私もだんだん慣れてきた。

古墳の上に実る橘

畑についてからも、城さんの話は止まらない。栽培における苦労話から、その動機、実際に橘を広めようとしても、最初なかなか広まらなかった話。それが最近では全国から有名シェフや、パティシエの方も見学に来るらしい。趣味で養蜂もやっていて、蜂の巣が入った箱には、某有名パティシエの方のサインが入っていた。「バーテンダーでは私が初めてですか」と伺うと、奈良以外では。との事だった。

収穫をする城さん

畑で楽しい時間はあっという間に過ぎる。橘を獲り、食べ、畑の端にそっと座ると、二上山(ふたかみやま)と言う連山が見える。春分の日と秋分の日の両日、この連山の間にちょうど夕日が沈んでいくらしい。万葉の時代、その美しい風景に惹かれ、その骨を埋める場所として、この地を選んだ事は想像に難くない。当時の天皇たちも眺めたであろう風景を見ていると、その時代もそんなに昔では無いような気がしてくるから不思議だ。万葉、日本書紀、平安京、織田信長、柳本藩。連綿と続く歴史の中で、あくまでその直線の中にいる自分の存在を思い起こさせてくれる。初めて食べた橘の味も、どこか懐かしいように感じる。そんな体験だった。

山の辺の道より二上山を望む

帰りの車の中で、橘の味を思い返していた。これは必ずリキュールに合う。そうなると自分に向いた仕事だろう。「織田の名に恥じぬよう」私の生涯でただの一度も思ったことの無いセリフだ。しかし柳本はそんなことすら思い起こさせるような、素敵な土地だった。今は令和2年、ご先祖様には申し訳ないが、私には家を背負うほどの甲斐性はないので「じっちゃんの名にかけて」くらいにしておこう。そう思った。

次回予告: 大和橘殺人事件

では後ほど

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?