見出し画像

人は不満足するようにできているのかもしれない。

一応、幸せについて考えていくと大風呂敷を広げた手前、幸せについてはどこかで考えねば。構えると重いなぁ。

そう考えた時、

「わたしくやしい、絶対に幸せになってやるんだからねっ!」という、いかにもな台詞が思い浮かんできて、笑ってしまった。

僕も、幸せになることに決めたはいいが、いかにも幸せってみんなが求めやすいようにできているのか、流行っているからなのか。なんだかわかりにくい。あまり意識しないまま漠然とした中でただ「いいかんじ・無難に大事」というイメージで使っているようにも思う。

多くの先人たちが、幸せになるために人は生きていると伝えてくれている。それほど、幸せというテーマは大切だと後押ししてくれる。案外、すでに考えきられているのかもしれないけれど、幸せの定義も人それぞれだと思うし、まずは、自分なりに考えることが大切だと思う。

なので考えた

なんで人は幸せになりたいのだろう。
なぜ、人は幸せでないと思うのだろう。
なぜ、人は人を羨むのだろう。
どうして、人は今に満足できないのだろう。

不思議だ。「なんで?」が独り歩きする。

頭の中で考えたり、ノートに書き出したりしてみるものの、自分の経験と思考だけでは限界がありそうなので、本やネットで知識を入れてみる。ただ、それに乗せられるのではなく、自分の感覚を大事にしておこうと思う。

なので、まずは自分が幸せをどんな風に捉えているかを考えてみる。

それは、満たされている。満足しているというイメージ。

すると、なんで今、満足できないのかという疑問がでてくる。

そもそも、満足ってなんだ?

デジタル大辞泉で調べてみる。

満足とは、
まん‐ぞく【満足】 の解説
[名・形動](スル)
1 心にかなって不平不満のないこと。心が満ち足りること。また、そのさま。「満足な(の)ようす」「今の生活に満足している」
2 十分であること。申し分のないこと。また、そのさま。「満足な答え」「料理も満足にできない」
3 数学で、ある条件を満たしていること。
(デジタル大辞泉 https://dictionary.goo.ne.jp/word/満足/)

これをベースに考えてみると、不満と思っているときは、2の意識になっており、1の時は肯定的な使い方をしていることが多いようだ。

そして、1はこころの持ちようでどうとでもなるということを示している。

つまり、幸せをコントロールできるってこと。

これってすごくない?って思ってしまった。

そして、基準が自分で決められるってことだ。

2はなにか他者との比較や、一般社会的な基準で示されているという話になっているように思う。

もしくは、足りないと思うように人はできているのかと思ってしまう。

ここで、生物が生きる意味を考えてみる。
基本的に生物は、個として生き残り、子孫を残して繁栄するということをベースにプログラムされている。有史以前から生物はそれを基に自分の身体をバージョンアップさせてきた。

そうすると、本能、遺伝子としてはまずは、個として「生き残る」ということ仕向けるように考えやすいはず。そして次に、子孫を残すように促す。例えば、繁殖相手にアピールできることを手に入れようとする。(鳥類で、雄のほうが雌よりも華やかなものが多いのはそのため)動物ではそうですが、人では、相手が求めているものに近いもの(好み)というものもあるので、大変ですね。自分の好きにできないこともあるかもしれません。もしくは、自分の好きを認めてくれるひとを探しに行く。というスタイルになるのかもしれません。

子孫繁栄という視点からすると、生物としては、男女かかわらず、なにか足りないと思うほうが、次の行動に移すキッカケになりアピールポイントが増える仕組みとして成立しているのかもしれません。そうするほうが、生物的には好ましいのかもしれないですね。

ただそれは、子孫繁栄とか狩猟社会とかの話で、今は現代。
いろんな価値があり、単純にそれが好ましいとは言いきれない時代に私達は生きている。

生物のプログラムとして、「足りない」と思わせるような仕組みがあるのではないか。

これを押さえておくと、かなり整理しやすくなるように思います。

行動の指針や、自分のやり方が決めやすくなる。

おそらく、満たされるということを考えるときは、これで満たされているという「今」に注目する必要がある。本能を知った上で、コントロールすることで、幸せに一歩近づけるのではないかと思うわけです。

わかっているのにやめられない。
わからないけど、何故かしてしまうという行為のには、本能という仕組みがあるのかもしれませんね。

ただ、人は経験と学習から行動を変容させることができます。

満たされないという感じや、渇望しているのは、本能がさせていることで、実は本心ではないということを示しているのかもしれない。

こんなことを思いました。

足りないというのは、本能が仕向けた罠。
だから、仕方ない。

罪を憎んで人を憎まず。
本能を憎んで、自分を憎まずです。

退屈するということが、自分にとってどれだけつまらないことかは皆さんご承知の通りだと思います。

僕は人生でワクワクし続けることを目標にしているのですが、それとは別軸で、「うらやむ」「ねたむ」「渇望する」というのは走っているんだと理解できたような気がします。

楽しめること、好きなことはそのプロセス自体を楽しめること

結果が楽しめることは、打算的。計画的。

子どものころを思い出してみてください。
何が楽しいかわからないけれど、一日中ボールをころころ転がしてみたり、追いかけたり。壁の模様をじいっとみては、顔みたい〜と移り変わるイメージを絵にかいてみたりする。

大人になってみると何が楽しいんだか。という行為を子どもは何を考えるでもなく、し続ける。

そんな状態になれることが幸せなんじゃないかと思う。

他になにがあるでもなく、報酬があるわけでもなくそれに夢中になる。没頭する。(没頭という言葉なんかスキ)

こんなことが一つの幸せの形なのかなぁと。

職業柄、子どもの発達について考えることが多く、これを心理学的に後押しする概念があります。

FLOWという概念です。

フロー(Flow)とは、
人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ゾーン、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態とも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。(wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/フロー_(心理学))

活動でいえば、難しすぎもせず、簡単すぎもしない。自分の持っている力のちょっとだけ難しいものが楽しい。というのも大切な概念だ。(ヴィゴツキーの発達の最近接領域)

こことつながるのかな〜と思います。

長々と書いてしまいましたが、結局の所

幸せは自分で決められる。(なんかきいたことある)
夢中になること、大事
人は不満足するようにできてるのかもしれない。

というお話でした。

続けるって大事。

それでは、また明日!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?