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ゲンロンカフェ(小説)

「今日何かいいことでもあったの?」

「いいえ。ひとつも」

「そうか。表情が晴れててそう思った。僕は人を待ってる」

「誰ですか?」

「それは秘密だね」

僕は机の向こうで電話を待っている東浩紀さんが、誰を待っているのか気になった。その前「興味がある」と言ってたニューヨーク出身の日系アメリカ人の女性かもしれない。または、彼が最近興味を持っている、ほかの人かもしれない。僕は彼の口からの返事を待たずにーこんな事はしばしば起こるのだーゲンロンカフェから外に出た。

「おはようございます!」

「おはよう。ゲンロンは初めてです?」

「はい。来るのに相当時間掛かっちゃって」

女性はハンドバックからハンカチを出し、ブラウスの雨粒を拭きながらそう言った。彼女は先言った日系アメリカ人で、アメリカで日本史を研究している。僕は評論の翻訳の関係で彼女のことを初めて知った。彼女も、僕の文章を読んで面白かったと褒めてくれた。まず近況を、と僕は彼女に質問した。

「最近どうですか」

「普通ですね。勉強して、日本語の文章を翻訳して、あらゆるパートタイムの仕事をして、…Jさんはどうですか?」

「僕も何事なく。翻訳して、そして韓国語と日本語で文章を書いて、たまたま雑誌に寄稿するくらいです。勉強を続けたいと思ってはいるんですけど、何を勉強すればいいのかまだ迷っています。多分永らく続くでしょう」

「そうですか」

「そういやニューヨーク出身ですよね?大学で初めてニューヨークを離れたと聞いたんですが」

「はい。ニューヨークも賑やかでいい街なんですけど、私は、個人的な思いですけどニューヨークよりカリフォルニアかボストンの方が好きで。NYは賑やかすぎです」

「そうそう。NYは賑やかすぎです。僕はさっさと去りたいと思ったんです、いつもNYに滞在するときは」

「あら、JさんもNYに行ったことはありますか」

「何度か」

「なら良くご存知でしょう。NYがいかに人に寂しい思いをさせる街なのか」

「はい。存じております。それは仕方ないことでしょう」

言ってから僕は肩をそびやかした。彼女も一緒にそびやかす。僕はニューヨークでの暮らしについて尋ねた。彼女は優しく僕の質問に答えてくれた。おそらく彼女は、会話する相手の質問に答えることがとても上手で、しかもそれを楽しんでいた。

「雨ですね。もう帰らないと」

「せっかくゲンロンカフェまで来たのに帰るなんて、残念ですね。僕も行かないといけないので、一緒に行きませんか」

「はい」

僕は無意識に傘立てからビニール傘を取り、玄関の前で傘をさした。残念なことに、それは二箇所くらい傘の骨が外れたものだった。彼女は僕がさした傘を見てくすくすと笑った。

「いや、これは僕のものじゃないです」

「ちゃんとしたものを持ってこないと。ほら、外を見てください」

彼女の言った通りだった。街は初夏の梅雨でいっぱいだった。梅雨は黒い屋根と、赤い煉瓦と、舗装されたアスファルトに叩き、丸い丸い波形を描きながら百方に飛散した。その中を学生さんと社会人たちが、忙しげに傘を持ってぽちゃぽちゃと歩いていた。僕は彼女を見て微笑み、そして傘ぼねの外れた傘を傘立て戻し、また新しい傘を取ってさした。今度は幸いに僕のものだった。彼女は楽しげに言った。

「可愛いお傘ですね。どこで買ったんですか」

僕は答えた。

「成田空港です。その日もちょうど、今日みたいに大雨でした」

僕らは一緒に傘をさした。ビルの前に敷かれた横断歩道を渡った。彼女は明るい黄色の傘を持って、僕は黒いドットが貼られた、透明な水玉のビニール傘を持った。外見は安くてすぐ壊れそうな傘に見えるのだが、昔一人暮らしをしてた話をすると、こんなビニール傘を何年も使ったことがある。ビニール傘はなかなか壊れない、むしろすぐ壊れなさそうなものが一番早く駄目になる。変なことだと思わざるを得ない。

水玉の傘を容赦なく叩く雨粒の音とハーモニーを作るため、僕はスマホを出して小沢健二のシングルアルバムを再生した。19年ぶりに日本に帰って、今は日本で活躍している彼の歌は、こんな出だしであった。

羽田沖 街の灯が揺れる
東京に着くことが告げられると
甘美な曲が流れ
僕たちは しばし窓の外を見る

小沢健二 「流動体について」から


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