ツイート纏め

まとめて後で読むために僕のツイートの中でも再読する価値のあるツイートをここに纏めている。
元々はVTuberの話をしたかったのだが、ヒントだけ残っている。

僕のテーマはキャラクターの「偽装」と「演技」なんだろうなきっと。それがどんな演技であっても人間の本質的な部分よりも人(話者)の無意識に近づいてて欲望を語っているという意味で。演技の表れでしか本物の「私」を語れないとか、シネマの永遠のテーマでありながら、それがVtuber(キャラクターを演ずる)というメディウムで反復されている現状は興味深い。

@gfx50 のツイッター

昨日のスペースでは恋愛と結婚の話が出て、僕は一応「VTuberさんと結婚したいですね」と答えといた。そして「家族の80%は失敗で、残り20%が成功ですけど、残りの20%にかけて近代家族を作るか否か、という問題です」と。たつざわさんの声が繊細で気持ちよかった。

@gfx50のツイッター

今更にゃるら君がツイッターの人間に叩かれてる理由がよく判らないがあのゲームだけを評価すると、僕がネットスペースで見てきたメンヘラは大体あんな感じのメンタルケアが必要な危うい存在だったので、リアルすぎてゲームの面白さが色褪せる気がした。人の典型をリアルに描いても燃えるんだなやっぱ。
もちろん、ゲームがリアルすぎるから怖いというのは、逆に考えれば我々の日常生活が(データに過ぎないと思っていた)ゲームと峻別不可能な地点まで来てしまったという事実を表しているのだろう。だから古いオタクからすれば弊害(日常=ゲームという真実)を許せなくて、創作者を批判することになる。

@gfx50 のツイッター

現代社会では男と女は恋愛関係を演じるのであって決してそれを「恋愛」とは呼べない。だが、アニメーションや映画のセックスの中では、演技の演技によって本物の愛の姿が垣間見る、見えてしまう。シネマ的ムーブメント。

何故か僕は最初から近代家族の織りなす構造に興味がなくて、フロイトのオイディプス三角形もまったく他人の話にしか思えなかった。それ故一般的な(一般性を失わない意味で)ヘテロたちの恋愛の話が退屈に感じられ感情移入することもなかった(新海誠の映画から感じ取られるあの雰囲気も苦手だった)。男性の自意識過剰の表れより女性の何かに縛られた欲望の現れに興味があったのは自然な話で、新海誠の映画の女性たちもそういう縛られている欲望をそれぞれ抱えている、そこが大事ではないかと思った。

@gfx50のツイッター

邦画のセックスシーンの粗雑さについて考えてて、「うみべの女の子」も再現が難しかったけど兎に角絵を映像にしてる部分がその他に映画と違って評価できるんじゃないかなと思った。邦画のセックス表現ももうちょっと洗練されて欲しいな。

@gfx50のツイッター

「私たちは知っている。今持っている物、富と権力、名声、知識、私が愛している人たちからの愛情、そして彼らの裕福さがまだ十分満足を与えてくれない事を。しかし私たちは考える、それらがもっと多くなれば満足できるのにと。私たちがそう信じる理由は、自分を騙しているからである。もしそれについて(注:信じることについて)少しでも真剣に考えるのであればそれが嘘であるのは明らかである」
シモーヌ・ヴェイユ 「Pensees sans ordre concernant l’amour de Dieu」
シモーヌ・ヴェイユさん、兄が数学者なのに本物の神秘主義者で両極端に見えて(さほど離れていないかもしれない)興味が湧く。

@gfx50のツイッター

小林秀雄はモーツァルトの音楽から悲しみを先に感じたのだが、今ピアノソナタが耳に到達する瞬間僕が初めに経験する感情は喜びと達観である。
もしやLPと真空管スピーカーの組合せは何か「哀れ」な感情を増幅させる機能を有しているのではなかろうか。だったらそれを聞いてみたい。

@gfx50のツイッター

ある美術評論家のやり取りを見ていると互いの意見を一見尊重するように見えながら実は他人の意見を全く尊重してないのがヒシヒシと感じられるのだけど、それは他の美術評論家も程度の問題で同じ現象が見られるのだから、美術素人の僕からは「共同体が成り立っていることが不思議で堪らない」でしかない。それもー特異性の高さーある種の文化なんだろうか。もちろん哲学でも相手の事を尊重しない故に起こるハプニングがある訳だが、誤解を訂正する努力はみんなするので。
個人の世界の境界線がはっきりしているのかな。曖昧さを許し難いのか。
それが真実であれば僕は一生美術評論を読むこともそして執筆する事もなくて、ただ美術館に行ってアーティストたちの作品を鑑賞して、それで終わりにすれば良い。わざわざ他人の世界にお邪魔するのは門前払いの危険がある。
(明日のツイート)
果たして人間は、他人の性格を尊重せずにぐいぐいと意見を押し込む人間を前にした時、笑顔でいられるかどうか。「演技」で全てを誤魔化せば何もかもなかったことになるだろうか。いや、もっと根本的に問われれば、「命懸け」を芸術家に要求する評論家の営みを、コモンセンスを適用して「評論っていうのは芸術の手助けですよ」と考え評論家が「命懸け」でなくても作品を評論することに何も問題ないと考え、風通しの良い部屋に接続出来るのか?それは欺瞞に過ぎないと思う人もいる。
ご参考 https://twitter.com/tauchitakatoshi/status/1530189169792008195?s=21&t=wEFlsuvcLkXWmhLzghONgw
人間はすぐさま他人に寛容になることは出来ないし、ある美術評論家も単なる「駆け引き」をしたのではないか。だけど、その駆け引きに何の意味があってそれが「相手の意見を尊重していない」事態へのexcuseになるのか。僕は気になる。作家を無視する評論家が同じく作家に無視される可能性を考えないで自己流で評論するのであれば、もはやお終いだろう。縄跳びでもしてればよい。
それが今時の「文化」であり、思想であり、サブカルチャーもそういう影響を受けている事に僕は遺憾の意を表する。

作家と読者の「会話」、コミュニケーション、脆さを危惧しながらも発信するメッセージは、作家と評論家の「駆け引き」のレベルを遥かに超えている。何故なら文化の次元の前に世界と言語があるから。

@gfx50のツイッター

村上春樹の短編集『一人称単数』の素晴らしいレビューがどこにもいないのは何故だろう。評論家は春樹に対する興味を失ったのか。
春樹はプラトン主義者だが、プラトン主義者の割には現実the worldに密着しているところが村上を春樹に作るのではないか。
村上春樹は『騎士団長殺し』を書く前に何かを「見ちゃった」のかも。だから村上春樹のファンたちも『騎士団長殺し』で春樹が言いたかった事を理解できず、メッセージを理解できずに作品を肯定してしまった。もったいない。これはヒントだけど『騎士団長殺し』の「私」はあくまでも観察者に過ぎない。モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」で「レポレッロ、食事を準備しろLeporello, un’altra cena Fa che subito si porti!」の台詞は、免色邸で食事を準備する免色と、彼の目に見えない騎士団長とで同じ構図で反復される。
もちろん「私」にもドン・ジョバンニらしき面があって、免色にもドン・ジョバンニらしき面があるんだけど僕はどっちが主人公かといえば免色が真の主人公で、私は観察者だと思っている。と考えると「白いスバルフォレスターの男」は誰だろってなる。魔性(ナチスの残酷な歴史)に近い何かではないかと。
ただそう考えると難しい問題は、「白いスバルフォレスターの男」は東北で漁業をやっている普通の人間で(しかも最後の描写によると大震災で船が壊される)そんな人がなぜ魔性、つまり残酷な歴史と大日本帝国軍と南京事件まで象徴する存在になるのか、もしかしてこれは村上春樹がメタファーを盛り過ぎたのではないか?ゆるーく繋げるとしたら多分、
「白いスバルフォレスターの男」=右翼
大日本帝国軍と南京事件=「右翼の無意識」
私が「白いスバルフォレスターの男」の肖像画を描くこと=「右翼の無意識を理解してそれを表現すること」
免色がマリエと一緒に住む=子供がリベラルの意思によって守られる(何から?)
話はこれで纏められる
主人公である「私」はリベラルと右翼の闘争を遠くから観察している人。「免色」は自分の子供を右翼の煽動と捏造から守ろうとするリベラルの人。「白いスバルフォレスターの男」は右翼のメタファーで、ゆずとの再結合は子供とリベラルの意思を守っていこうとする観察者(創作者)の自己告白。

不思議な事に、世の中のイメージと異なって村上春樹の長編小説は「道徳的主張」が強いですね。教訓が物語の隅々まで行き届いており、村上の小説は非常にエシカルです。

@gfx50のツイッター

仕事も一段落、村上春樹の小説をずっと読んでいて『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』まで読んで、村上春樹は今の日本に住みながらこの国を昔の国と比べながらどんな風に思っているのか、思いが次の小説にどんな風に現れるのか気になってたんですよね。
本のどこが良かったの?て聞かれたら、僕は「[どこが良い]というのは少なくとも『多崎つくる』に関しては適切な説明ではないと思います。この小説は崩壊寸前の社会にメッセージを伝えていて、無言のメッセージの中に村上春樹は作家として真実しか言ってないように思います。良い以前の正しさの感覚の問題です」と答える。例えば道徳の実用主義的立場moral pragmatismの人は、崩壊寸前の社会を直せる方法が存在すればそれを採用して直していけばいいと思うはずなんだけど(議論は無視)僕は、プラグマティックな方法の前に(人間存在に)普遍価値が優先すると思うので、崩壊寸前の社会を直す方法は「価値に戻る」ことしかないと信じている。
哲学的な話をすれば、これはメタ倫理学での「robust realism」的な立場にコミットするのではない。何故なら、強い意味の実在論は人間存在の外部から合理的な関係が存在し得る「プラトニックな」価値(神、善悪など)を仮定する。僕の実在論は人間存在の外部から合理化できるような超越的価値にコミットしない。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のラストシーンを単純に「希望がある」「結実がある」と読解すると、村上春樹のメッセージを無視する結果につながる。つまり、多崎つくるの選択は「希望を持つ」「希望を持たない」の二択から第三項の関係を設けようとする努力があるからこそ生まれた新しい選択である。多崎と沙羅の危うい関係性は偶然に支配されていて、かつ危険を予備する。それは沙羅が中年男性とデートする場面を多崎が直視することで明らかになる。絶望と希望の二択は我々の問題の解決に繋がらない。故に、高校時代の友人と再会したつくるはかつて信じた、信念を取り戻すことで別の選択肢を、三項の関係を試みる。これに関してはなんか書いてみるのも良いかもね。今仕事で忙しいんだから来年やってみよう。

@gfx50のツイッター


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