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守ることの中に自由がある

はじめに


守る事の中に人間の自由がある。

私はそう思います。

私には長く付き合っている恋人がいます。

「浮気をしてはならない」というのは恋人関係を結ぶ上での大きな約束事の1つだと思います。

恋人がいる事によって女性関係が窮屈になると感じている人は、その関係性を曖昧にしたまま性欲を満たしたりする事もあるかと思います。

私はそれが悪いとは思いません。
好きな様に生きればいいと思います。

ただ、自分の幸せよりも相手の幸せを願ったり、相手を悲しませる様な危険を冒してまで、自分の幸せを追い求めるようとは思わなかったりと、そう思える様な人に出会い、その関係性を大切に育んでいきたいという人には、自分の心にとって無理のない自制心の保ち方を心得て欲しいと私は思います。

自分の心を抑圧し、一時的に精神を擦り減らして実践する優しさや一途な姿勢ってのは、いつか必ず崩壊すると私は思っているからです。

そうならない為にも自分の欲望を律する事、それに準じている自分自身の行動に納得する事が凄く大事だと私は思います。

今回はそんな健気で一途な人に向けて、自分の行動を律することに関して納得できるような、私なりの考え方や意見を紹介していこうと思います。


お前は犬か?人間か?

例えば「水が飲みたい」と思ったとします。

それは喉が渇いたからです。

しかしだからといって他人のペットボトルから水を勝手に飲んでいいわけではありません。

あなたはこれを我慢と捉えるでしょうか。
それとも自由と捉えるでしょうか。

「喉が渇いたから水を飲みたい!」という生理的欲求に対して、他人の水を勝手に飲んではいけないという道徳心や理性が働きます。

その結果「今は水を飲まない!」という行動選択ができたりします。

犬や猫にその判断はできません。

「喉が渇いたかた水を飲む!」この生理的欲求に抗う術を持っていないからです。

ある意味、欲求に縛られているとも言えます。

しかし人間は違います。
生理的欲求に対して抗う術を持っています。

つまり道徳心や理性をもって生理的な欲求に抗う事ができるのが人間であり、そこに自由があると私は思うのです。

恋人との間に芽生えた信頼を守る事の中に男の自由がある。

他の異性が気になってもいいと思います。その興味関心に抗えと言っているのではありません。その結果もたらされる自分の欲求に対して、理性と道徳心をもって抗えと私は言っているのです。

私は雄ではないかもしれない。
ただ現代を生きる人間として私は男でありたい。

悲しませたくない相手がいる。

自分の欲求に抗う動機としてこれほど強いものはない。

私は男でありたい。

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