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父記録 6/12【ここ数日が山場です〜The second season 】


雨。
昼前、犬にハーネスを着けていると電話が鳴った。父の病院からだ。
朝方から高熱が出て酸素濃度低下、肺炎も悪化しているという。
「何時ごろ来られますか」
「すぐ行きます。」
ハーネスを着けたままの二匹が玄関まで見送ってくれた。納得いかない顔をしていた。
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レントゲン写真に写った父の肺には再び白いもやがかかっていた。
「ここ数日は急な呼び出しがあるかもしれません。エクモや人工呼吸器などの延命措置は病院の方針でやりません。主に苦痛を取り除く処置になりますが、ここで出来る限りのことをしてゆきます。ただ、以前と同じことをしても肺炎からの立ち上がりが以前のようにはいかない、ということもあります。
ここ数日が山場だと思ってください。」
とO先生。
ここは終末期のがん患者さんの緩和ケアを行う病院だ。穏やかに最期の時間を過ごす為のケアをする。
点滴や経管栄養、苦痛を取り除く処置はするが、人工呼吸器や人工心肺(エクモ)などの延命措置はしない。
それは正に私たち家族の希望するケアだ。

一度外へ出て、母の到着を待つ。
何も食べずに出て来たので目についたお蕎麦やさんで天ざるを注文した。
蕎麦はむにむにと柔らかく、天ぷらの衣はバリバリと厚く、時ににちゃにちゃとしていたが、とりあえず完食。
しょんぼりと店を出て霧雨の中を歩き回った。コンビニでチョコレートばかり、3つも買った。
車に戻ってリクライニングを目一杯倒して横になった。スマホをぼんやりと眺めながら、「葬儀 東京」と検索する。
まだ時間はあるとしても、父が持ち直してくれるとしても、少しは調べておくに越したことはない。
「葬儀 杉並区 国立市」「葬儀 流れ」「葬儀 費用」……一般葬、家族葬、人数、形式、宗教、戒名……

チョコレートがコンビニ袋に入ったまま、助手席でじっとしていた。 
雨は蕭蕭と降っている。
フロントガラスの向こうの角から、カーキ色のレインコートを着た母が曲がって来るのが見えた。
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父は口を開けたまま、苦しそうに眠っていた。

「どうしたー?大丈夫?大変だったね、あたしよ。もう〜、ね、大丈夫?ね、あたしとともちゃん来たわよー。」
母がこの上なく優しい声で言った。

誤嚥を避ける為、経鼻胃管の管は外れていて、代わりに酸素を送るチューブが鼻腔に入っていた。

父の額や手のひらは熱かったが、足を触ると冷たかった。

母と二人で父のアームカバーを替える。
父は拳をギュッと握っている。
ゆっくり、少しずつ指を開いて、指の間や手のひらを拭く。
白い垢が出る。生きている。

「俺はゴローさんや上田や〇〇さんや△△さん、□□さんたちのいるとこに行くんだ〜なんて思ってるかしら。仲良い人はみんな死んじゃったからね」
「まだいいじゃん、ね、お父さん」
父は眠っている。

「でも、最後にこうやって会えてるからね」
母が言う。
いやまだ最後じゃないし。
でも、そう遠くない日に、最後がやって来るのか。
分からない。
近いようで、遠いかもしれない。
どちらがいいのか分からない。

母「ここで終われるといいね」
私「いい病院だもんね。」
母「もしもお母さんががんで死ぬ時はここに。」
…そうだね。
病院嫌いの母がここまで気に入る病院はそうないだろう。
いつか来る、母との別れの時間はどんなものになるんだろう。
それはきっとまだまだ先だけれど、もう始まっているような気もする。

看護師さんとO先生が代わる代わる様子を見に来てくれる。
前日の朝はおはようと言ったそうだ。
「よく言えたねえ」と母。
母がまた、昔の話を語りだす。
「オイルを沢山入れた革って当時はあんまり日本になくてね。ゴローさんが革屋さんと一緒に開発したのよ。で、その革はゴローズ以外には卸してなかったんだけど、お父さんが独立した時にね、『村田くんはうちから独立したから、村田くんには卸してやって』って口聞いてくれたの。だから材料だけでも、他の店とはぐんと差をつけて始められたのよ。」
1970年代の話だ。
「ゴローさん、お母さんに彫金教室も紹介してくれたのよ。『勉強しておいた方がいいよ』って。」
「え、お母さんが彫金教室に通ったの?お父さんじゃなくて?」
「そうよ、お父さんはギリギリまでゴローズにいたんだから。お母さんはひと足先に保育園辞めて、彫金教室通って、それから車の免許取ったのよ。」
独立当時の父はまだレザー製品しか作っていなかった。彫金は未経験だった。
1976年の12月までゴローズで働いて、翌年の1月にUNCLE TOMをオープンしている。
一体どんなスケジュールで準備を進めたのだろうと思う。
「最初は福生で物件探してたんだけどね、なかなか条件に合うのがなくて。その頃は福生に店舗物件あんまりなかったのよね。結局ギリギリに国立で見つかって。」
そうか、私はもしかしたら福生で育っていたかもしれなかったのか。
独立時、父はゴローさんから「Goro’s Brother 」と言う名前をもらった。
Goro’s Brother UNCLE TOM
それが開業時の名前だ。
何もかも、ゴローさんに導いてもらったのだなと改めて思う。
「ゴローさんがある日、ベルトループのキーホルダーを作って付けてきたらね、次の日にはみんな同じようなの作って来ちゃうんだって。スケボーだって当時日本には乗ってる人なんていなかったのよ。ゴローさんが乗って来て、みんな真似して夢中で練習したみたいよ」
当時のゴローズの工房は青山。近くの坂で昼休みに練習したそうだ。
「ゴローさんが留守の時は昼休み1時間延長してスケボーしたりしたんだって。お父さん嬉しそうに話してたわよ」
そう、確かにあの頃、父以外にスケボーに乗ってる人を見たことはなかった。
運動神経のあまり良くない父が、何故かスケボーはそこそこ上手く乗れたのだ。
私「スケボーで通勤したり、買い物行ったりしてたよね。お米を肩に担いだりして。」
母「そうよ、犬が来てからは犬にスケボー引かせたりしてね。」
私「犬ぞりね。絶対『スケボーおじさん』て呼ばれてたよね。」

末っ子犬のくまこがまだ小さかった時。
背中のリュックにくまこ、くまこはリュックから顔だけ出して、ゴンとディドにスケボーを引かせて通勤していた父。
通勤路の小学校の前を通るたびに子どもたちがきゃあきゃあ喜んでいたそうだ。
きっと名物おじさんだったのだろう。
父のスケボーはいつも玄関に立て掛けてあった。使い込んで塗料が剥げかかった、青いスケボー。

父の胸がゼロゼロ鳴った。
「みんないるから大丈夫だよ、お父さん」
父の胸を撫でる。
「みんな、って。お母さんとともちゃんだけじゃない。」
母が笑った。
それがみんなだよ。

「『アルジャーノンに花束を』ってあるじゃない。
あれみたいにお父さん、色んなこと覚えて賢くなって、色んなことがどんどん出来るようになってアイディアもどんどん出てきて仕事もうまく行って。でも、パーキンソン病でどんどん出来なくなっていって、アイディアも出てこなくなって…自分でも落ちていくのが分かるし、苦しかっただろうと思うの。」
母は最近「アルジャーノンに花束を」を読んだらしい。
「犬が居たから、幸せだったと思うよ。」
「そりゃ犬はかわいかったけど。三匹いるとその関係も面白いのよね」
あとね、お母さんと私がいるから幸せだと思うよ。
「こどもがね、くまこを指差して『これなあに?』って訊いてきてお父さん、『レッサーパンダと犬のあいのこだよ』って答えたの。そしたらその子信じちゃって、お父さん慌てて追いかけて行って『嘘だよ、冗談だよ〜』って。」

母の口からは犬の話、ゴローズの話、若い頃の話がとめどなく溢れて来る。

テレビではウクライナとロシアの戦況が流れていた。
終わらない戦争。
あそこにある命と、ここにある命。

「口に何か入れてあげたいけどね」
母が言った。
父の胸はゼロゼロと鳴り続けている。
「口のお掃除だけしようか。」
口腔ケアスプレーをスポンジに付けて父の口の中を拭う。
「ジュース、持って帰るね。」
冷蔵庫の中の桃ジュースとココアをかばんに仕舞う。
父がまたジュースを舐められる日は来るだろうか。

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