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沈黙は金なのか、雄弁は銀なのか(エッセイ)

「沈黙は金なり」という書き出しで中学生の頃、作文を書いた記憶がある。
原本はないので書いた本人も記憶を辿るしかないのだが、生意気にも「トーマス・カーライルの『衣装哲学』の言葉だ」などと出典まで記した気がする。
そんな出典先の『衣装哲学』という本を読んだことはなかったし、今に至っても読んでいない。
そのくせ偉そうに出典先を書いていることが実に生意気だ。

当時の自分は(今もだが)色々と捻くれていた。
まぁ、たいがいの人間は捻くれている年頃ってのがあるものだけど。
たしかその作文は、「周りの同級生たちは常にペラペラと喋っているけれど、物事の本質的なものは何も判っていない。意味のないことばかり喋っているなら、黙って本質的なものを思索するべきだ」みたいな内容だったと思う。
その頃の自分は学校の教科書なんかは読まず、プラトンの『ソクラテスの弁明』という哲学書に触れ始め、その影響があったのだろう。

今では『厨二病』という言葉で全て説明できてしまうし、本来なら『黒歴史』という言葉で封印すべき事柄なんだけど、一周して最近「あの頃の自分よ、いいぞもっとやれ!」という気持ちも芽生えている。
当時の自分はスクールカーストの底辺で、いわゆるリア充に対するルサンチマン(これはニーチェの影響か? 我ながらかわいい)から、なんとか一矢報いようと、自分の存在意義を見い出そうと、理論武装を固めた必死の抵抗だったと思う。

時が流れ、カーストで言えば自分は底辺のままでいるが、社会に対して何か物申してやろうという気持ちは少なくなったし、誰かに対して自分を認めて欲しいという欲求も枯れてきてしまった。
だからこそ、あの頃の自分に「お前はそのままでいい。偏屈な性格はどうせ直らないのだから、変わり者と言われようとそのまま突き進みなさい」と言いたくなったのだ。

さて、そんな今の自分が「沈黙は金」について考えてみた。
果たして「雄弁は銀、沈黙は金」は本当なのかと。


「口は災いの元」
生きていればこの言葉を痛感することが多々ある。
年を重ねるほど、何を言うかより何を言わないかの重要性を感じる。
それは実際の発話だけではなく、インターネットやSNSでも同様だ。特にXでは、有名無名に関わらずその発言は炎上の元だ。
見ている側としては余計なことを言わなきゃいいのにと思う。
ただ、余計なことを言わなきゃいいのにという旨の意見や、単純にそれに対しての感想をその場に書き込んでしまうと、その反対意見もすぐさまやってくる。
つぶやきは、単なる独り言ではなくなっているのだ。
そんな場面をいくつも目撃していると、最初から何も言わないことが正しい処置、つまり「沈黙は金」だなと思ってしまう。

同時に、言わなきゃ何も伝わらないという当たり前なことについても考える。
この文章だって、それこそ雄弁に自分の考えを言葉にしている。その行為が沈黙より劣るなどとは到底思えないし、思ってしまえば途端に何も書けなくなる。
沈黙は雄弁に勝ることもあるだろうが、雄弁が劣ってはいけない。そもそも、金とか銀とか優劣をつけるものではないはずだ。


------------------しばしの沈黙------------------



なんてつまらない文章なんだ!

思わず感嘆文にしてしまうほど、この結末はひどい。
自分で問いを立てておいて、どちらとも言えないという締め方で終わろうとするなんて。
中学生だった自分の作文はどのように締めたのだろうか、思い出せない。
おそらくあの感じなら、実もない話を続ける周りの人間を否定して沈黙を貫く姿勢を肯定し、冒頭の「沈黙は金なり」で締めていたはずだ。

うん、そちらの方がだいぶいさぎよい。
この文章を読んで、あの頃の自分が「実もない話を続けるおしゃべり野郎」と思わないか、それだけが心配だ。


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