ブックレビュー 【金閣寺】
三島由紀夫(1925~1970)
『金閣寺』
1956年発表の本作は、言わずと知れた近代文学の金字塔です。
1950年の実際にあった「金閣寺放火事件」をモチーフにした本作に、今更私の解説など蛇足でしかないが、少しだけお付き合いいただきたい。
正直初めて読んだ時は二度三度挫折をして読了しました。
今回まとまった時間ができたので再び読んでこれを書きますが、
それでも解説と呼ぶにはおこがましいので、単純な感想としたい。
簡単のあらすじと所謂ネタバレも含むが、未読の人でも本作においてはネタバレをしてから読んでも問題ないと思うし、むしろその方が読みやすいまであると思う。
なぜなら、あらすじにしてしまえば数行程度の話を330ページ用いて描いているのは事実だし、その表現力と描写力を味わう物語だと思うからだ。
あらすじとネタバレ
吃音をもつ主人公の私(溝口)は、幼い頃からいじめられていて消極的な性格に育ちます。父親から「金閣ほど美しいものは此世にない」と伝えられていた主人公は金閣寺に対する観念的な美を持ち合わせていました。
その後金閣寺に修行僧として入った主人公は、実際の金閣寺は想像よりも劣り、美しくないことに落胆します。
住職の計らいで大学へ進んだ溝口は、同じ修行僧の鶴川、学校で出会った柏木と関係性を結びながら学生生活を送ります。
しかし戦争の激化とともに、戦争で焼かれる金閣寺を想像し、その運命と自身の間に共通点を見出し、金閣のもつ悲劇的な美しさは増していきます。
ついには「金閣を焼かなければならぬ」と決意し、火を放ちます。
自死が叶わなかった主人公は山の中へと駆け出します。
山中で渦巻く煙を眺めて煙草を喫み、生きようと思うのでした。
表現力と描写力
本書は金閣寺がもつ「美」というものがテーマになっている。
以下は、主人公がまだ見ぬ金閣寺に対し、その美しさを想像する描写です。
斜め読みをしようと思えば、数秒で読めてしまう描写である。
しかし、この描写で立ち止まり、主人公はこんな風に金閣寺を見ているのかと思いを馳せる。
大切なのはこれを読んでいる「私」の金閣寺像ではなく、物語の主人公である「私」の視点と考え方だ。
これを理解することにより、後から出てくる「実際の金閣寺を見た時に落胆する主人公」の描写も伝わりかたが違うと思います。
なぜ主人公は金閣寺を焼いたのか、なぜ「生きよう」と思ったのか
なぜ主人公は金閣寺を焼いたのか、本書はその過程を描く物語です。
なので未読の方は、まず本書を読むことをおすすめします(ネタバレという意味合いではなく、まずは原文で感じて欲しい)
その上で、私の感想を以下に述べます。
「金閣を焼かなければならぬ」と決意した主人公は、ついに金閣寺に火を放ちます。
決意をしてからの主人公は、まるで憑き物が落ちたように生き生きとしたように映りました。まるで死を予感した人のように、周囲への愛想までよくなります。
そしてこの意味を考える上で、柏木とのやりとりも不可欠です。
柏木は「世界を変貌させるのは認識だ」と言いますが、
溝口は「世界を変貌させるのは行為だ」と言い返します。
いわば自分が変わるか、世界を変えるかの二項対立の末、変える行為として金閣寺を焼いたともいえます。
そして、主人公の「美」に対する嫉妬も原因としては重要です。
「自分は持つことのできないその絶対的な美に嫉妬する」感覚というのが、読んでいて強く感じたところです。
もっと言えば、昨今のストーカーのような「捻じれてしまった愛憎のようなもの」まで感じました。
そしてラストのなぜ「生きよう」と思ったのかですが、これは難しいです。それを考えるための小説とも言えます。
個人的には、行為という方法で世界を変えようとしたが、結果的には変わらないということに気づき、主人公の認識が変わったのかな、と。
つまり、自分が変わるか世界を変えるかは
二項対立ではなく、二項両立であるのかなと。
以上は、あくまで私の感想です。
おわりに
名作というのは懐が深いですね。
逆説的に懐が深いから名作と呼ばれているのでしょう。
ただ、私が学生なら読書感想文にこの本は選ばないですね。
それだけ骨太な内容ですし、実際この記事を書くだけでも結構時間がかかりました。
それでも私の拙文から何割かでもこの本の魅力が伝えられたらと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございます。サポートいただいたお気持ちは、今後の創作活動の糧にさせていただきます。