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子どもがいる世界だからこそ人は

自分と違う場所にいる人や、違うことをしてる人の話を聞いたり見たりする事ってやはり大事だと思う。

いつも新しい事に出逢わなくてもよくて「ああ、そうだったそうだった」とか立ち返る事もとても大事。
びっくりするくらい、繰り返される日常の中で色々な事が凝り固まっていくものだ。

当たり前を見直したり、癖になっている事を解きほぐしたり。それは、常にある環境の中では難しい。

では、とにかくあちこちに行く?
と言われると、それはそれで迷子になるから、軸になる考えや、場所や、人は決めておかないと地に足がついてこない。
迷子になった時に、「ああ、そうだったそうだった」と思わせてくれることがなければ、ずっとふわふわ漂ってしまう。

強い言葉や、大きな感情の動きにはどうしても左右されるし、それはそれでいいと思う。ただ、右往左往した後には、自分の場所に戻りたい。

「おうちがいちばん」

そんなようなものが、自分の中にあるだろうか。

それはそれとして。
毎日のように縛りが増えていく。
それは、ネガティブなことばかりではなくて、楽しいとか嬉しいとか幸せとかも縛りになる。
「この楽しさがなくなったらどうしよう」
は、ネガティブな縛りよりずっと強い気がする。

だから、時に解かないと自由から遠ざかる。
(てか、自由ってなんだろうか)
あの頃は、自由を求めて、描いて、踊って、言葉にして。
そして、また縛りが生まれる。
なかなかに「楽しい」ということも、しんどい。

あれ、でも、最近、描かないし、踊らないし、書かない(いや、書くのはそうでもないか)けど、結構大丈夫。

大丈夫なのは、自分の中に、軸になる考えや、場所や、人があるからなんだろうか。(多分、そうだなというものはある)

でも、それだけじゃない。
今、僕の周りには結構、子どもが居る。

我が子であれ、園の子であれ、歩いてて出会う子であれ、子どもとの出会いはその縛りを解く鍵だ。
一歩足を踏み入れれば、あとは開けばいい。

色々あるけど、一回捨てよう!
まずは、開けてみよう!
これができれば、今日は大丈夫。

ああ、僕ら自由な人間だったな。

その実感は、これまでの何よりも強い。

「知ってる?大人って椅子にすわるだけでも許可がいるんだぜ?やばくない?」

子どもに大人を求めたら、子どもが居なくなってしまう。
それって結構しんどい世界なんじゃないか?
もう僕らは戻れないから、どうか子どもは子どものままで。

そんなこと言ったってって言うじゃない。
でも、いいのかい?
僕ら、人間を剥奪しているぜ?

子どもが居ない世界が来たら、多分、人間は詰みだと思う。

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