誰も教えてくれない描写と説明の違い

描写と説明は違う


 描写と説明の違いについて、納得のいく説明を聞いたことがない。しかし、自分の中では確固たる違いがある。それは、”伝えたいこと”と”伝えていること”が一致しているか否かだと考える。

 例えばこんなふたつの文章があるとする。

 説明 → とても長い時間が経った。
 描写 → 部屋のギターは埃をかぶっていた。

 どちらも”伝えたいこと”は時間の経過だ。しかし、表現方法が違う。説明の方は”伝えたいこと”と”伝えていること”が直接的で一致しているのに対して、描写の方は一致していない。描写の方が表現しているのはあくまで部屋のギターの様子である。

 実は、これは視点を変えて考えれば、「部屋のギターの説明」とも取れる。これがこの説明と描写の違いについて考える時にややこしくなる原因だ。厄介なことに、”伝えたいこと”を何とするかによって、これは説明にも描写にも変わってしまう。”伝えたいこと”が時間の経過であれば描写であり、”部屋の様子”であれば説明になる。だが、これらのことも”伝えたいこと”はなんなのか、実際に”伝えていること”はなんなのかに注目すれば、それが説明なのか描写なのか、次第に気づけるようになる。

 上の例はそのまま日常会話の中で現れることがある。長い間ギターを触ってないことを友達に伝える時に、「いやーギターなんて全然触ってないよー」と言うのが説明。「いやーギターなんて埃かぶったままだよー」と言うのが描写。日常の中で「この人なんか気の利いたこと言うなー」と思うことがあったら、この話を思い出せばその原因がわかるかもしれない。意識していないだけで、この説明と描写の違いはどこにでも潜んでいる。

 ただ、描写が必ずしも説明に優っているわけではない。例えば今書いているこの文章は描写ではなく説明である。しかし、こと芸術作品に関してはこの描写が優れてい場合が多い。間接的に表現することで、その空白を想像力で埋める必要がある。その結果、読み手によって解釈の余地が生まれる。解釈の余地が生まれることで、読み手それぞれの状況に当てはめるゆとりが生まれる。むしろ、そういった描写そのものが芸術と言ってもいい。

歌詞の場合


 BUMP OF CHICKENは「天体観測」にて、時間の経過を伴う描写として、

宛名の無い手紙も 崩れるほど重なった

と表現している。この場合は手紙の量や、それに伴う感情の行き場の無さも同時に表現しているが、「崩れるほど重なった」という部分が描写として秀逸である。時間の経過でしか表れない埃のように、崩れるほどというのはそれだけでどれほどの量なのか、どれほどのためらいがあるのか容易に想像できるからだ。

 歌詞の例を挙げればキリがないが、有名どころとしてイルカの「なごり雪」では出だしで、

汽車を待つ君の横で僕は 時計を気にしてる

とある。これが”伝えたいこと”は「別れを惜しむ気持ち」である。しかし実際に”伝えている”のは「二人の情景」である。この不一致が描写だ。

 逆に悪い例の話をしておきたい。なごり雪と似た別れの場面において、ゆずの「サヨナラバス」の出だしは、

予定時刻は6時 あとわずかで僕らは別々の道

から始まる。ここまで読んでくれた人なら、これが説明に他ならないことがわかってもらえるだろうか。これは紛う事なき状況説明だ。なんならなごり雪の「汽車」を「バス」に変えてもらってもいいぐらいである。それほど状況は似ているが、表現にはレベルの差が表れている。

 歌詞は骨董品のようなものだ。例えに出した天体観測やなごり雪は高い壺で、サヨナラバスは安い壺だ。安い壺を好きだと言うのは構わない。しかし、これは決して”高くはない”。好きだと言うのは構わないが、高いと言うのは違う。せめて、安いものを安いと認識した上で好きであってほしいと思う。しかしこれらはまさに骨董品の目が利くかどうか同様、世の中の歌詞は玉石混交であり、それらを見抜くリテラシーが育まれる機会も無い。是非この機会にそんな視点で見てみてほしい。


涼宮ハルヒの憂鬱がなぜ素晴らしいのか


 今までの話は、決して歌詞や文章だけの話ではない。アニメ、ドラマ、映画など、芸術に関する全てと言っていいだろう。涼宮ハルヒの憂鬱は、作品内の全てが描写と化してしまう恐るべき秀逸な設定がある。それが、「ハルヒの望み通りに、無意識に世界が変わってしまう」というものだ。

 これによって、世界の様子を描くだけで、それら全てが「ハルヒとはどんな人物か、今どんな感情でいるのか」を描写する構造となっている。周りに集まってくる人はハルヒがそんな人間を望んだから。おかしな空間が生まれてしまうのはハルヒのストレスから。ひいては文化祭で披露した歌の歌詞すらハルヒの想いと取れる。ハルヒが自身の口で自身の感情を一切説明することなく、周りの状況を描くことで全てがハルヒという人間の描写になってしまう。さらには周りの人間のハルヒに対する評価も三者三様であり、神なのか、時間の歪みなのか、実際のところが説明されることはない。こういった、本人ではなく周りを描くことで間接的に本人を描写する構造は「桐島、部活辞めるってよ」というベストセラー小説に近いものがある。宮部みゆきの「火車」も同様だ。

 これら全てが描写の成せる業であり、”伝えたいこと”と”伝えていること”に注目することで、より鮮明に芸術の美しさを認識できるものだと考える。

どうやって描写を扱うか



 今までは受け取る側の話だったが、今度は扱う側になって、どのようにすれば描写を使えるのか考えてみる。個人的な方法論として”それによってどうなるのか”を考えるという思考プロセスがある。

 例えば最初の時間の経過の例では、「時間が経つことで(それによって)ギターが埃をかぶった(どうなるのか)」という風に考える。伝えたいことが時間の経過だから、時間が経つことでどうなるのかを考える。その結果、時間の経過でしか表れない埃を説明することで、間接的に時間の経過を描写している。

 まず”何を伝えたいか”を考え、”それによってどうなるのか”を考える。悲しいことを伝えたいのであれば、”それによってどうなるのか”を考える。泣いた、というのも厳密に言えば描写と言えなくもないが、度合いが伝わらない。度合いを上げていくなら、目が腫れるほど泣いただとか、涙も鼻水も止まらないだとか、泣き過ぎて頭が痛いだとか、逆に涙すら出ないだとか。とどのつまり、その度合いに応じて、どれほどの悲しさだからどれほどのことが起きたのかを考えていく。

 例えば「とある魔術の禁書目録」というライトノベルで印象的だったのは、アクセラレータという最強の能力者が堅牢な建物を破壊しようと攻撃したとき、建物は壊れなかったが、その結果地球の自転周期が0.数秒遅れた、というような描写があった。それほども衝撃に耐えた建物の頑丈さと、それほどの衝撃を繰り出した攻撃の強さの両方を一発で伝えられる。これもまた、どれほどの衝撃を与えることでどうなるのか、を考えると導けないこともない。


最後に


 ここまでの話はあくまで持論なので、間違いがあるかもしれない。しかし、もしこれらをまだ認識していないなら、新たな視点の獲得という意味で、仮に間違いであっても有益なことだろう。映画、アニメを観る時に注目してみてもいい。会話のどこに潜んでいるか考えてもいい。誰かに何かを伝えたい時に意識してみてもいい。アメリカでは虹が6色、ロシアでは4色と考えられているように、情報の中から選り分けることで初めて認識できることもある。ここまで読んだ暇なあなたの役に立てれば幸いだ。

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