狩猟、そして祝福を受ける二頭の牡鹿

ウィル・グレアムは狩りをする。
牡鹿のように木々の間を素早く駆け、彼の蹄は逃げる猪を追う。
猪の足は遅く、鋭い蹄に蹴られた獲物は枯れ草の上へ倒れ込んだ。振り上げられた角が夕日の朱色に染まり、そして赤褐色に濡れた。
逃げようと立ち上がる猪の足は、もう立つこともかなわない。
一撃を受けた哀れな獣は倒れ伏し、なおも這い逃げようとするその顔を牡鹿の豊かに伸びた角が刺した。幾度も角で突かれ、猪は絶命した。
息を荒げた牡鹿は徐々に落ち着いてゆき、震える息で冷えた大気を吸い込んだあと、二本の脚で立ち上がった。
ウィルの傍に、狩りの場にそぐわないオーダーメイドスーツを着た男が並び立った。
牡鹿の勇姿を狩りの最初から観察していたのだ。
丹念にウィルの手を確認し、大きな怪我がないことが見てとれると、ハンニバル・レクターはウィルの乱れた上着を優しい手つきで整え、恍惚とした声色で褒めた。
「高揚したかい、ウィル。君の狩猟から本能を感じたよ」
レクターは狩りの成功に大袈裟な喜びを示すでもなく、ただ微笑みで祝福した。品のある仕草は英才教育を施された古き貴族の振る舞いを感じさせる。
ウィルはふと、レクターならどう仕留めただろうかと考えた。以前、彼はストレスを与えると肉の味が変わると言っていた。
おそらく獲物に知られていない限りは、気づかれないように後ろから忍び寄り、首を捻るのだろう。
彼らは多くの言葉を交わさず、必要な行動へと移った。
獲物を茂みに隠した車まで背負い、トランクへと運び入れ、揃って家路へとついた。

冷えきった山荘の暖炉に火が灯されると、贅を凝らした内装が照らし出された。
赤の絨毯がリビングを覆い、黒檀のダイニングテーブルは晩餐の皿が乗せられるのを今かと待っている。
「料理を頼めるかな、ハンニバル」
料理はレクターの独壇場だ。曲の構成を描くようにコースを決め、新鮮な肉によく砥がれた包丁を入れる。
ウィルが気後れする程の晩餐を創る彼の調理にも、幾度も食事を共にして慣れていた。
「もちろんだ。さっそく解体しよう、血抜きをして肉を分割するんだ」
「そのまま肉を取り出して切るんじゃいけないのか?」
山荘の地下はコンクリートで打たれ、秋の終わりの寒さで冷蔵庫のように部屋を冷やしている。
狩りと解体の師であるレクターに従い、ウィルは傍らに立った。
この獲物は長く活かしておく必要がない。そう判断された猪は細いナイフを皮下に沈められる。
「血抜きを怠ると、肉は臭みがでてしまうからね。見ていてご覧、動脈を切ってあげると処理がしやすい」
足を縛り、天井から下がるフックに逆さ吊りにする。
レクターは最小限の刃の動きで首の動脈を切り、血を抜いていく。
「私が首を捻るのは、心臓を止めずに仕留めたいからだ。
心臓が動いていれば、血を運ぶポンプの役目を果たしてくれるからね」
「そうか……仕留めることしか考えていなかった」
「君はそれでいい。速やかに肉を切りだせば、そう問題にはならない。処理がしやすいというだけだよ」
流れていく血はまだ温かく、床の排水溝へと吸われている。
猪の顔を勢いよく流れていく血は、それでも数リットルが流れれば大半を失い、流れを細らせた。頃合いを見ていたレクターは吊った体を台に下ろし、腹に刃を入れ、胸から腹へ向かって切り開いていく。
皮膚を大きく剥がしていき、筋線維が間を縫う肋骨が露出する。
電動鋸が骨を削り、膜に隠された臓器が開かれた。
ウィルの知る臓器と言えば、残忍な犯行で破壊された断面や壊れてしまった中身ばかりだが、レクターの手によって暴かれた体内は血に塗れていなかった。
「先に血を抜いたから、出血が少ないのか……」
元外科医の手腕もあり、洗浄を終えれば料理に使えてしまいそうな臓器が露出している。
「どの臓器も健康な色をしているね。元気な獲物だ、どれも調理に使える」
薄い刃物から細長くメスに近い形状のナイフに持ち替え、筋を切りながら丹念に臓器を一つ一つ取り上げていく。
肋骨の中に眠っている肺を取り上げ、その下にすっかり動きを止めてしまった心臓が見えた。
心臓を眠らせたまま、横隔膜に覆われた肝臓を切り出す。
内臓は網膜に包まれ複雑に収納されていたが、ナイフを置いたレクターは委ねるようにウィルの顔を見た。
「君の思うままに」
レクターの言葉は常にウィルの意見を尊重し、行動に誘う。
「残りの部位は使ってもいいのか?」
「ああ、構わないよ」
腸の処理は洗浄にひどく時間がかかる。今夜は使わないことにしたのだろう。
体よりも丁寧に扱われる臓器はレクターの手で洗浄されていく。彼が内臓を好んで調理するのは、舌触りを重視するせいだろうか。
腿肉のステーキは最近食べたばかりだ。彼は他の殺人鬼のように変わった部位を積極的に選びはしない。
体には細かく筋や腱が入っているから、加熱温度をコントロールし調理するには向かない箇所が多いのだろう。
地下に残るウィルを措いて、レクターはトレーを手に一階へと上がっていった。


「狩猟の成功と、君との晩餐に」
白ワインの入ったワイングラスをわずかにかかげ、レクターは晩餐の始まりを告げた。
丸みを帯びて艶のあったレバーは香辛料と野菜を混ぜたテリーヌとして四角整えられ、皿に盛られている。
蝋燭と花が飾られたテーブルには二人分の飾り皿と銀食器が飾られ、ウィルを待ち望んでいた。
「レバーのテリーヌだ」
テリーヌの横たわる周りにはカブとトマトが飾られ、パセリが散らされている。
ウィルは簡素に料理を褒め、舌の上で濃厚に溶けるレバーの味を感じた。
ジャックといた頃に彼にもてなされた晩餐は、駆け引きや腹の探り合いと、料理に彼の用意した食材が使われていないかと緊張するばかりだった。
今のウィルはレクターと出会ったばかりの頃のように、無邪気に食事を楽しむことができる。
「君の猪に似合う曲を、私はどこで聴けるのかな」
ウィルは力強く抵抗し、その牙で抗おうとした猪の姿を思い浮かべる。
「山を躍動する姿が忘れられない。あの体格の優れた猪は、生前よく駆けていた」
猪に襲われかけたウィルは、抵抗したところを一度取り逃がし、そして仕留めた。
「フィレンツェに、ブロンズで造られた猪の噴水像がある。
池の畔で腰掛けた、幸運を呼ぶと言われる猪の像だ」
「なら、水のある場所へ」
フィレンツェの美しい街並を、緋色の屋根を見ることはもうないだろうが、それでもお互いが欠けることなく共にあれる場所ならば。
彼の記憶の宮殿にある、金箔を施されたパラティーナ礼拝堂で言葉を交わす必要はもうない。
確かな道ではなくとも、同じ光景を傍で見て、生きていける。
海の只中に浮かぼうと、それが彼らの居場所だ。
夜の暗がりに紛れ、幸運の猪像を運び出した二人は、望む水辺を探し旅立った。


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