#130 クリスマスのおもいで
特にネタもないのでクリスマスにまつわるおもいでを書こうと思ったがとーんと印象がない。もっと記憶を掘り起こすってえと、実家ではこどもらが高さ1mくらいの樹脂製のクリスマスツリーを設置して飾り付け、26日には撤収する、という役目を負わされており、あれが苦痛であった。そもそも樹脂は手に刺さって痛えし、力の入れ方によっては折れるし、年を追うごとに部品が外れてみすぼらしくなってくるし、作業をしないでいると父親はブチ切れるし……なんというか、考えてみればイベントごとがあるから「消化していく」家庭だったんだなあ。楽しいとか楽しくないとかではなく、消化していかないと気分が悪い、みたいな。「年末年始なんてなくていいのにね」とかいいながら大掃除をして、餅をついて、おせちを作ったりする。
今考えれば「いやならやめればいいぢゃない」というのは正しかったのだとわかる。家長のこだわりに振り回されるのはまわりにとってはたまったもんしゃないんだわね。アタシも気をつけなくちゃいかん。
そういった影響のせいか、そうしたイベントごとがどんどん億劫になっていくわけだ。なんだろう、おそらくはそうしたパーティって、参加者はもちろん楽しいし、準備するがわも参加者の喜ぶ顔かなんかを想像しながら、それはそれで楽しみ、というのであればパーティもやる意味があるんだろう。
今年のクリスマスは、息子が「銀だこが食べてえなあ」というので近所の銀だこを探すと池袋の店舗が駅の構内にて10時から開いているらしい。ぢゃあ買って帰るか、と別件の野暮用を済ませて駅構内をウロウロすると見つかりゃあしない。人はわんさかいるし、昼食の時間は近づいてくるし、ちょっとなんかあったらブチ切れそうにイライラしながらスマホを繰っていると、もしかして改札の中にあるのか!? ということに気づき(そうぢゃないのかもしれないけど)、このまま断念して寿司でも買って帰るとちょっとしたスイッチで家族に当たり散らしそうだなぁ、と考えることしばし、しかたねえ、貫徹したらあ、と急に山手線に乗って大塚の銀だこでしめて30個注文して気温6℃の下出来上がるのを待っているころにはようやく頭も冷めていた。チーズ明太を頼んだのに「ゆず明太でーす」って出てきたころには「あ、そすか」と言葉少なに店を後にするくらいにはなっておった。
まぁ、銀だこはうまいからな。そのくらいはする価値はある。
性の6時間というのもなんであんなに盛り上がるかわかんねえよなあ。
やるけど。散々やったけど。
あれも不思議なもので「クリスマスだから」ではなくて、クリスマスデートでイルミネーションを見てエモい気持ちになってそのままホテルに駆け込むのか、12月24日に結ばれると46,000日分のキリシタン功徳があるのか、というと当然前者なのであるが、だんだんと後者のテイストになりつつあるのが面白いなあとは思っている。四万六千日、お熱い盛りでございます。ナンダカワカラナイ。
しかしこれもまた「パーティを準備する喜びと享受する喜び」に分類できるのだろう。これもまたパーティだからな。
不意に「クリスマスデートで食べた秋刀魚のパスタに中って嫌んなるほどゲロ吐いた」という記憶が蘇ってきたが、これはクリスマスであったかどうか定かではない。
などとつらつら書いてきたが、日本においてはクリスマスの前に忘年会という概念があって、そのへんの概念の親和性が高かったんだろうな、という実感がある。それが家族単位であれ、友達単位であれ、ひとりでサンタコスのAVにうち興じるであれ――となるとやはり「パーティーを楽しむ」という気概がないとこの辺はピンとこないんだろうなあという結論に至る。
最近は家飲みをしすぎて外の宴会もすっかり怖くなっちまってよう、どこまで飲んだらいいのか、何を話したら地雷を踏まないのか、そういうことばかり考えてかなり億劫になっておる……この根っこには「素面になってからの後悔の念」が強く――もう、いですか? この話題……