美人局が読めない

正確に言うと「よく考えないと読めない」となる。
滅多に目にするような文字列ではない−幸か不幸か、私は小説の中でしか見たことがないように思う。–が、不意に視界に飛び込んできたり、頭に思い浮かぶ事がある。

「美人局」

脳内で波打つように浮かぶこの魅惑的な文字列は、半年に一度ほどのペースだろうか、文字通り私を“惑わせる”。もしあなたがコンビニ前の喫煙所でこの文字列を思い浮かべたならば、タバコの火は気づかぬうちに指に近づく事になるだろう。電車に乗っているのならば、目的の駅を2つほど乗り過ごしてしまうかもしれない。喫茶店にいるのならば、たっぷりのコーヒーからはひとすじの湯気もたたぬ事となる。

まず、この文字列のもつ意味はすぐに思い起こすことが出来る。デジタル版百科事典『日本大百科全書』によると、「男女が共謀して、女が他の男を誘惑したところへ男が現れて金銭を強要する行為、およびそれを行う者」とある。

私のイメージではそれは金曜の夜に起こる。
ネクタイの乱れたその営業マンは、一週間の仕事を終え、来週へ持ち越してしまった書類の作成、上司からの謂れのない罵詈雑言、残業代のつかない今週の数十時間のことを忘れるため、ネオンの光に吸い込まれるようにそのバーへ立ち寄る。
カウンターに案内され、ビジネスバッグを隣の席へ投げつけるように置き、自分は席につくなりなぜか肘をつき頭を抱える。
近づいてきたバーテンに対し、一瞬(今夜くらいは…)という考えがよぎるが自らの給料を鑑み、結局は安物のウイスキーをロックで注文する。
店内に飾られているよく分からない線画(炭坑で働く屈強そうな男たちが描かれ、下の部分には揺れるリボンのようなものに筆記体の英語でおそらく『炭鉱の男たち』と題名が描かれている(かすかに『men』だけ読めた気がしたのだ))をぼうっと眺めていると、注文した酒が目の前に置かれる。
ウイスキーでちびちびと唇を湿らせながら、やりがいを感じない今の仕事のこと、内勤の女の子たちの前で平然と自分を怒鳴りつける年下の上司のこと、自分の事を待っているのか待っていないのか分からない家族のこと(娘は反抗期で最近は口も利いてくれない)について考えを巡らせる。
「なぜなんだ」
自問自答を繰り返すうちに、一杯だけと決めていたウイスキーのグラスには幾度も同じ酒が注がれる。
もう何度目か分からない大きなため息を吐いた時、ふと後ろから声をかける者がある。

「あのう、お隣良いですか」

振り返ると、長い茶髪を大きめにカールさせ、身体のラインがはっきりと出るタイトな黒のニットワンピースを身につけた女が潤んだ瞳をこちらに向けている(もう肩に手を置いていたかもしれない)。
彼はついその女の小さく形の良い鼻に目を奪われ返事に窮していたが、はっと我に返るなり、考えを巡らせる前にはもう「あ、はい、どうぞ」と答えていた。

…とまあこの後は『久しぶりに味わう言葉の駆け引き』『なくなる女の終電』『すぐに消えるが確かにあった一瞬の葛藤』『近所にたまたまあった小綺麗なラブホテル』『服を脱ぐのももどかしい程の欲望』『蹴破られる扉』『後悔先に立たず』と章は続く。とんでもない話だ。

何が言いたいかというと、ここまで具体的にこの文字列の意味や、ストーリーまでもを瞬時に思い描く事が出来るのに、肝心の読み方をいつも忘れてしまうという事だ。

真っ先に目につく“美人”の二文字。

「びじんきょく」

必ずである。必ずこの読みが最初に頭をよぎる。男というものは“美人”を目の前にすると瞳孔が開き、全身に緊張が走るような感覚に見舞われるものだ。いつも通りに振る舞おうとすればするほど、「今、俺は顎に手を当てているけれど、その手の角度、変じゃないかしら」とか、「さっきの視線、胸は見ないようにしたけれど、それが逆にいやらしい感じに映らなかっただろうか」などと頭でっかちに考えてしまい、本来の自分を自然に出すことが難儀なものとなる。そういう意味では、早速私はこの文字列の本来の意味通り“美人”に惑わされてしまっているのかもしれない。

「おつぼね」

“びじん”を頭からなんとか振り払い、次に登場するのはなんともうっとうしいおばさんの姿だ。電車に乗り、最近流行りのフェイバレットチューンを聴きながらバイト先の飲食店へ出かける。交代前のスタッフに首だけで適当にあいさつをし、事務所に入る。自分のロッカー(テプラで作られている、自分の苗字がひらがなで印刷されたシールが貼ってある)に荷物を置き、ユニフォームに着替えながらごくさりげない仕草で、しかし真剣な眼差しを今日のシフト表にやる。その名があるかどうかでその後数時間の心の持ちように大きく影響するからだ。しっかりやっているつもりでも少しのズレや認識の違いで的確に心をえぐる一言を放つその“おつぼね”は、店長や、一部の“一味”には大変重宝されているものだ。が、平日の夕方から夜22時まで、週に2、3度、確かに社会を知る者にはちゃらんぽらんに見えるだろうが、その実、真面目に働きたいと意気込む大学生たちには大変な不人気である。彼女の言動にすっかり参り、尻尾を巻いて(と周りには映る)やめてしまった学生も大勢いたという話もよく聞いていた。シフト表に彼女の名があるとさっきまでのフェイバレットチューンも虚しく霞んでしまうというものだ。

おそらく、「なんだか変な読み方だったような気がする」という思考回路から今度は“局”という文字に着想を得てこのような物語まで構想してしまうのだろう。“おつぼね”達は私たちの人生に暗い影を落としている。“おつぼね”と読む訳がないと分かっていても、彼女らについて考えを巡らせる事はこの文字列を読む上で避けては通れない道なのだ。

さて、ここからが大変だ。もうすがれるものは何もない。無数に広がる可能性の中からこの文字列を読み解かなくてはならない。それはまるで大海原に頼りない小さなイカダを浮かべ、特定の小さなメダカを探すようなものである(海にメダカはいるのだろうか)。今はスマートフォンという便利な道具があるが、ここまでの苦労を思えばそう易々と“びじんきょく”と検索画面に打ち込む気にはなれまい。

なぜか私の頭の中には能楽の舞台風景が浮かび上がる。正確にいうと、浮かび上がったのは懐かしい祖父の部屋とテレビ画面に映るそれだ。彼の部屋に“お邪魔”するのが好きな幼い私は、ノックもせずに扉を開け部屋に入る。ベッドで休みながらテレビを眺めている祖父は、私に気づくとチャンネルを『開運!なんでも鑑定団』に変える(子どもでも面白いと思ったのだろうか)。思い浮かんだのは、祖父がチャンネルを変えるまでのわずかな間にちらっと見た能楽の舞台だ。

子どもには不気味で恐ろしい表情に見える面をつけ、華やかな衣装をまとい舞う役者達。その後方には独特な楽器を扱う者が数名控える。

私の視線はその中の1人、“小鼓”を叩く人間に向く。「イヨー!ポン!」と叩く“あれ”だ。

「コツヅミ…コツヅミ…ツツ…ツツ…」

次の瞬間、あなたはいかにも落ち着いた動作でタバコを灰皿に押し付け、新しい一本に火をつける為にポケットを探る。あなたは慌てて電車を降り、小走りでホームの階段を駆け上がる。あなたはすでに冷めきったコーヒーを、ずっと前の一口目と同じ所作で啜る。コンビニ前の喫煙所から、駆け上がる駅の階段から、喫茶店の大きな窓から、見上げた空は見事な夕焼けで、頭の中にはもはや美女も、おばさんも、メダカも小鼓ももういない。

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