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読者にとってのスクープとは何か?

新聞やテレビ、雑誌などの記者が一番欲しいもの。それは「スクープ」です。一般的には「特ダネ」、業界的には「独材」なんて呼んだりもしますが、要は他社が報じていないニュースを先駆けて一社のみが報じることです。「スクープ」が多ければ多いほどその媒体の価値が高まるとされ、担当した記者は大いに褒められます。社内で表彰を受けることもありますし、特別報奨として金品が貰えたりもします。

筆者も新聞記者時代、いわゆる「特ダネ記者」として鳴らしたこともありました(本当です!)。ある事件をスクープし、社内でも表彰を受けて最高10万円の臨時ボーナスを手にしたこともあります。

この「スクープ」について考えてみます。

記者はなぜスクープを目指すのか?上記のように臨時ボーナスが貰えることや、社内での評価を高めることを目的としている記者はいないと思います。やはり一番は、記者としてスクープを書くことこそが「やりがい」だからに尽きるでしょう。むしろこの姿勢をなくした記者は、その時点で記者失格であるとさえ思います。

記者は日々、この独自のネタを掴むべく、関係先との信頼性を深めるためにあらゆる努力をしています。事件記者や政治記者では当たり前の「夜討ち朝駆け」はその基本中の基本。独自の情報源から情報を引き出すために、対象の出勤時や帰宅時を狙って取材をするのです(この夜討ち朝駆けについては後日詳細をまとめたいと思います)。仕事としては、クライアントからの信頼を勝ち取るために日々努力を重ねる営業職に近い部分があるかもしれません。

こうした努力が実る瞬間は、「スクープ」を放つことしかありません。極論を言えば、何時間不眠不休で働こうが、給料が上がるわけでも出世できるわけでもないのが記者の仕事。「スクープ」を放ち、それを必死に追いかける他社を横目に次々に「続報」を放って独走状態に入ったときの「快感」は、スクープを書いたことのある記者にしかわからないと思います。

この記者にとっての一番の栄誉であり、仕事の目的でもある「スクープ」ですが、大きく分けて2種類あると思います。一つは、その記事がなければ世の中に知らされることのなかった事実を浮き彫りにするスクープ。地道にデータを積み重ね、問題を浮き彫りにする「調査報道」や、政治家の汚職や公務員の不祥事などごく一部の人間しか知らない情報を掴み、きちんとした裏付けを取った上で報じる記事などが、それに該当します。新聞、通信、放送の報道の中から毎年一番のスクープ記事を決める「日本新聞協会賞」は、業界の中での「年間MVP」を決めるイベントだと言っていいでしょう。

もう一つの「スクープ」は、いずれ発表になる事柄だけど、公になる前に先んじて報じてしまうもの。業界では「抜く」と表現しますが、例えばある事件の容疑者を逮捕する前に「●●事件の容疑者逮捕へ」と前打ちすることや、企業同士の合併を発表前に書くもの、政治の世界では閣僚人事、芸能分野ではタレントの結婚なんかも対象になります。ほとんどの記者は日々、この「公になる前に先んじて報じるスクープ」のために取材しているといっても過言ではありません。これを他社にやられると「抜かれた」ということになり、担当者は上司にこっぴどく叱られるのです。

この「いずれ公になるけど、その前に書いてしまう」スクープ。私も新聞記者時代は数え切れないほど書きましたし、それで社内での名声も高めました。独自の情報網がないとこうした情報は掴めませんし、裏取りにもそれ相応のテクニックが必要になります。こうした取材の延長に、「その記事がなければ世の中に知らされることのなかった」スクープが待っているとも思います。

でも、私はこの後者のスクープは現代では必要ないと思っています。正確に言えば、多くの読者はこうしたスクープを求めてはいないと思います(関係者は除く)。

正式な発表であれば、当局から資料が出ますし、それに基づいて報道すればいいので問題ありません。しかしいわゆる「抜く」記事では、基本的にはネタ元からの口頭で聞いた情報を元に記事にしてしまうので、間違えることもしばしばあるし、本質とかけ離れた内容になることもあります。もっとも、発表前の資料を手に入れてしまえばそんなリスクはなくなりますし、私自身の経験からもそれが一番ラクでした。「抜く」側からすれば、単に口頭で情報を引き出すだけでなく、最善を期すために資料をもらう努力もするべきですが、そこまでできるケースはレアでしょう。

つまり何が言いたいかというと、たかが数時間~数日以内に発表されることについて、血眼になって情報をかき集め、その結果誤報になるリスクも多分に抱えているのにも関わらず、やれ「独材だ」「抜いた」と喜んで報じることの意味が果たしてあるのか。その疑問に答えられる記者はいるのでしょうか?

私自身が当事者でしたが、内心は「どうせ数時間後には発表されるのに」と思いながらも、「それが仕事」と割り切って「抜く」ことを目指していました。先輩からは「抜けば、その記事は特ダネ扱いになって、発表記事よりも大きく扱うことができる」と諭されましたし、実際そうでした。発表なら社会面の3番手程度の扱いだが、独材なので一面トップになった、といった具合です。テレビでもよく「独自」とテロップを出して、必要以上に大きく扱うことがあると思います。

これ、そもそもおかしくないですか?新聞記事の扱いは、編集幹部が集まって「立ち会い」というその日の扱いを決める会議を経て、日々決められます。「今日のニュースはこれがトップで、二番手はこれ」といった具合です。毎日あらゆる情報が入ってくる中で、読者に必要な情報を順序よく届けるために、「プロ」が会議の中で(独断と偏見を持って)優先順位を決めているのです。日本における新聞社の信頼度は極端に高いですから、「今日の一番のニュースはこれだな」ということが、読者にとっては自動的にわかる仕組みになっています。

やや話がそれましたが、「独材だから発表よりも大きい扱いになる」ということが行われると、せっかく機能している「ニュースの優劣決め」が、穿った価値になる。必要以上に大きく扱うことは、「これ、うちの独材ですよ」と自慢げに言っているだけでしかありませんし、読者にとっては何の価値もありません。

そして何よりも問題なのは、逆に「抜かれた」立場の社からすると、「この話は他社先行」として判断され、必要以上に小さな扱いになることが多いのです。逆に言えば抜かれた社にとっての「追いかけ記事」の扱いが大きければ大きいほど、その特ダネの価値は高い、という意味なのですが・・(業界では号外による追いかけこそが最悪の事態と言われています)。一般の読者は何紙も読み比べするわけではありませんから、「抜き、抜かれ」という報道機関のよくわからないしきたりのせいで、必要以上に大きな扱いのニュースを読まされたり、逆に縮小した記事を読まされたりしてしまうのです。

報道機関にとって、「抜いた、抜かれた」で一喜一憂している時代はとっくに終わっています。記者に求められるのは、新聞協会賞に選ばれるような、「その記者がいなければ、その記事がなければ表に出ることはなかった」という特ダネを狙うこと。それが読者にとって真の「スクープ」なのです。

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