小説『琴線ノート』第20話「辛いので」
「ちょっと聞いてほしい音源があるんだけど」
そういうと父はなんだなんだと興味ありげな表情で
こちらの様子を伺っている
「小川さんの曲に私の仮歌を入れたデモなんだけど」
「小川さん?誰だっけ?」と父
「小川奏多さん!七色スマイルの!」少しイラつく私
「ああ、“多く奏でる“で奏多な」
まったく、この人は一緒に仕事した人の名前を
覚えない上にこの間話したばかりなのに…
やれやれと鼻から息を漏らすと
「それなら俺の仕事部屋で聞いてみよう」
どこか機嫌の良さそうな父が言う
でも父の仕事部屋の環境で聞けるのはちょっと嬉しい
早速私たちは父の仕事部屋に向かった
真っ暗に電気が落とされた父の仕事部屋に入ると
父は照明をつけパチパチと色んなスイッチを入れる
パソコン、スピーカー、うず高く積まれた
機材達が目覚めるように点灯していく様は
まるで飛行機か何かのコックピットみたいだ
小川さんの部屋にあったスピーカーよりも
三倍くらい大きなスピーカーがこちらを向いている
小さい頃にスピーカーの音が出る部分を触ったら
怒られたのをちょっと思い出した
興味本位で触ったらいつもは優しい父に
急に大きな声を出されてびっくりしてしまい
しばらく涙が止まらなかったっけ
後から聞いたらスピーカー二個で80万円くらい
するらしく、それもそうかと納得した
あれから父の機材には怖くて触れない
そんな風に思っていたら再生が始まった
ヘッドホンで聞くのとは迫力が全然違い
声の細かな表情まで聞いて取れるし
オケの奥行きや広がりも聞くことができる
父は真面目な顔をして正面を見つめたまま
ずっと黙って聞いていたが曲が終わると
くるりとこちらを向いて柔らか表情で聞いてきた
「全然歌えてるじゃん。楽しかったか?」
意外な言葉だった
ちょっと褒められたような気がして嬉しかった
「うん、楽しかったし
新しい経験がたくさんあって色々知れた」
素直な感想だ
「小川奏多はどんなやつだった?」
と聞かれ自分が感じたままに
「いい人だった。あと、音楽すごい好きで
作曲の話を聞いたらずっと話してくれた
専門用語がバンバン出て取り残された感はあるけど」
そう答えている最中に父がニヤニヤし出したから
それ以上は言わなかった
それより私はもっと父に聞きたいことがあった
「ところで私の歌どうかな?」
父は「仮歌としては十分よ」と答えた
“そう言う事じゃないんだけどな“
心の中でつぶやくと、ふと気が付く
私もっといい歌を歌いたと思ってる
これまではSNSの数字ばかり追っていたけど
今は純粋に歌のレベルを上げたいと思っている
自分の中の変化を感じた勢いで父に聞いてみる
「アドバイス的なものが欲しいんだけど」
すると父は
「甘いのと辛いのあるけどどっちにする?」
とニヤケ顔で聞き返す
私は迷わず答える
「辛いので」
次回へ続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?