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流刑囚の映画千夜一夜物語~第51回『来る』(’18日)

 私流刑囚がその時々で見た映画を紹介するコーナー。第52回は『来る』(’18日)


本作の5点満点評価は…

コンセプト…4点
カメラワーク…2.5点
ビジュアル…3.5点
脚本…4.5点

総合評価…3.7点


 一言で言えば日本版『エクソシスト』といった感じの内容。特殊技術をバンバン駆使して心霊現象を描くという点ではトビー・フーパー監督、スピルバーグ製作の『ポルターガイスト』を想起させたりもする。

 本作はそういった過去のホラー映画の路線を継承しつつ、公開年が同じ『ヘレディタリー/継承』とほぼ同一のテーマを取り扱っている。

 ホラー映画に関しては昔より「幽霊が怖いのか?それとも人間が怖いのか?」という議論がなされてきた。近年では登場人物が「本当に怖いのは人間ね」などという台詞を言ってしまうような作品すら存在する。では実際は?

 ユヴァル・ノア・ハラリなどが言うように人間(ヒト)を他の動物と区別するのはその「認知システム」である。ヒトは五感で認知可能な自然現象を物語化し、さらにそこに「認知不可能な現象」までを組み込むことで自然を改変し文明社会を築き上げた。その意味では「心霊」も「人間の悪意」や「サイコパシー(精神病質)」も等しく「ヒトによって物語的に読み替えられた現象」に過ぎないということになる。

 『ヘレディタリー/継承』においても本作『来る』においてもそこで重要なモチーフとして描かれるのは「儀式」である。「儀式」という「前提の共有」によってヒトは自然現象を「物語」として共有することが可能となる。両作において共通するのはそうした「儀式=物語」の世界を否が応でも生きねばならない社会的動物としてのヒトの悲哀であり、その不条理に対するやり場のない怒りである。ただし『ヘレディタリー』において描かれる「儀式」はほぼ(クライマックスを除いて)一つの家族の中の話なのであるが、『来る』においては法事、結婚式、新居祝い、ブログ、クリスマスとより広範囲な社会性を有しているという違いがある。

 そして『来る』において非常に特徴的なのがそうした「儀式化/物語化された恐怖」とは別のヒトが孤立したときに感じる、よりプリミティブな「恐怖以前の得体の知れない感情」をも描いているという点だ。例えば妻夫木聡演じる父親の幼少期の体験、あるいはその夫に先立たれたシングルマザーの体験などはそれに当たる。例えば「子供が保育園で他の園児に靴を投げた」というその現象を一体シングルマザーはどうやって処理すべきなのだろうか?また幼なじみが目の前で消えた子供の体験は?それらは「恐怖」や「呪い」といった解釈すら拒む不気味な淀みのようなものである。それに比べれば「来る!」「来ます!」とはっきり示された「対象化された恐怖」はまだ居心地の良いものにすら感じられるかもしれない。

 そう、ヒトはそうした得体の知れない、やり場のない不安や不気味さから逃れるため「儀式=祭り」を生み出し、そこでみんなでワイワイガヤガヤと騒ぎまくるのだ。劇中でも妻夫木聡演じる父親や黒木華演じる母親が「得体の知れない不快感」を「恐怖」として解釈することが可能になるのは彼らが一人ぼっちの時ではなく、その傍らに誰か他の人間がいるときである。これは逆説的に言えば「儀式=祭り=物語化=ヒトの社会性」こそが「恐怖」を作り出しているというでもある。いわば「賑やかな恐怖」。

 さらに付け加えるとほとんどの人間は「周囲に祝福されて生まれてくる」のであるが、それこそが「その祝福から疎外される恐怖」を生み出すと言って良いだろう。特に妻夫木聡演じる父親は、その恐怖感から劇中で賑やかに狂態を演じ続ける。

 こうして述べてきた通り『来る』は間違いなく傑出した作品であるのだが、個人的にはちょっとカットを細かく割りすぎる点(中島哲也がCMディレクターだったことに起因するのか)がちょっと気になったのも確かである。岡田准一演じるライターが三途の川を走るシーンなどもうちょっと長回ししたほうが良かったような。まあ些事ではあるが。

 さて『来る』におけるこうした社会的な描写は本来であればハリウッドなどアメリカ映画が得意とするものであり、それに比べると日本映画は登場人物個々人の心理描写に重きを置く作風が多かった。しかし本来同じテーマ、モチーフを描いているはず『ヘレディタリー』が一家族の心理描写に重きを置く「古き日本映画」のような作風である一方、『来る』は多くの登場人物が入れ代わり立ち代わり登場し活劇を展開するスペクタクル描写が主である。また『来る』はVFXや特殊メイクなどを多用するのに対し『ヘレディタリー』には派手な特殊効果はほとんど使用されていない。これは面白い逆転現象だと思う。

 

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