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流刑囚の映画百物語~番外編『映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝』(’08日)


私流刑囚がその時々で見た映画を紹介するコーナー。今夜ご紹介するのは『映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝』。

本作の5点満点評価は…

コンセプト…2.5点
カメラワーク…2.5点
ビジュアル…4点
脚本…2点

総合評価…2.8点


うーん、なにがなんだか、よくわからない話。

そもそもあの緑色のタケコプターみたいなやつは何なのか?ドラえもんのひみつ道具なら出した時に最低限の説明はしてもらいたいが。

ラストでキー(キー坊)が地球代表として演説するのもよくわからない。えっ、彼って植物星人が地球に送り込んだやつじゃないの?地球の植物ならなぜ初登場時に踊ってたの?

伝えるってことは難しいね。

とにかく後半の展開は頭で理解しようとしてもさっぱりである。いつの間に地球と植物星人の星が繋がってたの?「癒やしの力」ってなに?「内なるなんとか」とか言ってたけどそれってなに?

一度滅んだ文明の遺跡(?)みたいなものが現れるんだがあれは一体なに?

そもそもこの映画のタイトル「緑の巨人伝」と言うんだが「巨人」なんか出てこないし「伝」つまり何らかの言い伝えも出てくるような出てこないような…そしてその「巨人」(?)の復活にキー坊が必要だというのはなぜ?

なんだろう、恐らく脚本の詰めが甘いか、もしくは作り手の頭の中だけで完結してそれを「伝える」ということにまで気が回っていないのではないか。

藤子・F・不二雄の原作って基本的に理詰めで進行していくイメージがあるので本作のようにふわっとした「お気持ち」で問題解決するのはどうなんだろう。

ただドラえもんのひみつ道具が勝手に作動して間一髪で世界を救うという思い切った展開について良かったと思う。

あと思ったのは絵柄の問題で線が荒い。藤子・F・不二雄の画風はあくまでも「シンプルな細い線」で表されるのであって本作で見られた手書き風の荒く太い線はちょっと違和感があった。なんかどちらかというと藤子不二雄Aの画風に見える。

全体として本作のスタンスは藤子・F・不二雄の作風の真逆を行くような感じがするが、はたしてこれは意図的なのだろうか?Fの原作在庫が尽きたためにそこからの脱却を図った?Fのファンの人が見るとどう感じるんだろう?

絵はまあ綺麗だし登場するキャラクターも愛らしくていいとは思うが、なんか釈然としない作品だなあ。伝えるってことは難しいね。

あとこれは余談であるが、ドラえもんのキャラクターとしての位置づけが時代とともに変わってきているんだなあと。原作やアニメ初期はどちらかというと未来から来た傍観者としてのニュアンスがあり、80年代くらいからは演者である大山のぶ代の人格が反映されたのであろう、子供を見守るおばあちゃん的な要素が強まっていき、そして水田わさび以後は子供に近い目線になっている。ただ水田わさび版だとどうしてもドラえもんというキャラクターが存在する必然性が弱まってしまうような気もしないでもない。


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