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造花

僕が住んでいる部屋のテーブルには、細長い花瓶に入った造花が置いてある。

今、スマホの調子が悪くて、写真をお見せできないのが残念なのだけど、薄紫色で、背の高い紫陽花ような綺麗な「花」だ。

でも、これは僕が買ったものではなくて、最初から机の上に置かれていた。家具や家電が、あらかじめ備え付けられているタイプのアパートなので、大家さんがどこかで買ってきて置いてくれたのだろう。

僕は普段、まじまじと花を観賞するような感性の高い人間ではないので、部屋に来た当初、この「花」が造花だとは気が付かなかった。住み始めて1週間ぐらいしてから、細長い花瓶に水を入れようかと顔を近くに寄せた時に、この花が作り物であることを知った。

「なんだ、本物の花じゃないのか」

そう気付いてからは、なんだかこの「花」の価値が下がったような気がして、少し残念に思った。「花」の姿形や色味は、少しも前と変わらないのに。

造花だろうが本物の花だろうが、美しいものは美しい。だけれど、僕たちは「情報」を与えられると、その「情報」という色眼鏡を通して、物事を判断してしまう。美しいものを素直に美しいと思えないなんて、とても悲しいし、残念だ。

歳を重ねるごとに、否応なく「情報」は増えていく。時にそれは、危険や失敗を未然に防いでくれる。だけれど、時にそれは、純粋な感覚を鈍らせ、だから、可能性を奪ってしまう。

今回の造花の話に例えれば、感覚的には美しいと感じているのに、造花という「情報」が入ることで、

造花→偽物→本物の花じゃないから美しくない

というような思考に陥ってしまうこともある。それは、とても勿体ないことだと思う。本物と偽物が入り混じっているこの世の中で、美しいと感じられるものが多ければ多いほど、人生はきっと楽しいはずだ。

偽物でもいい。嘘でもいい。自分が見て美しいと感じれば、それは本物なんじゃないだうか。僕たちが見ているのは、後付けの情報じゃなくて、いま目の前にある対象物のはずなのだから。

今日も、テーブルの上の「花」はとても綺麗だ。


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