オッペンハイマー

待たされたねー。これだけ公開延期されると、観れない可能性も感じて不安になってしまうが、最終的には観ることができ、まずはよかった。
さて、私は日本人でかつノーラン推しなので、その観点から語りたいと思う。まず、本作は登場人物が多すぎたり、複数の時間軸が前後しているため難解と言われていた。カラーとモノクロで異なる時間軸というお作法は、『メメント』でやっているから、そんなに苦ではない。登場人物も、時間の前後関係も2度観ることで、自分の中で整理できた。整理できれば、あとは分子や核分裂を実体化した映像や、Nirvanaの'Smells Like Teen Spirit'のMVみたいにみんなが足踏みをしている音を不吉な響きに使った音響、アップのキリアン・マーフィなど、十分に楽しむことができた。

ただ、モヤモヤが残ってしまうのも事実。鑑賞前に、本作には広島、長崎の実際の被爆の映像や画像がないことが不満、ということが聞こえてきた。ことの真偽については、鑑賞で確かめようと思ったし、実際観てみて、確かにオッペンハイマーが記録映像を見せられる場面でも映像自体は画面には映らない。それは、本作がオッペンハイマーの主観視点で語られるものであったり、ノーラン映画ではそのような映像は実際のではなく作りこむものだと思うし、代替として、広島投下後のパーティの場面でオッピーがそれを妄想として体験する場面があり、あのシーンは確かにいいシーンではあった。が、私は描写がこれだけでは甘いという人の気持ちも理解できた。本作はおそらく一般のアメリカ人に合わせた表現を選んでいると想像するが、アメリカ人と日本人ではこと原爆に対するバックグランドも違うために、避けえないことだと思う。

本作は罪を負ってしまったという自意識を持つプロメテウス的な人物を描きたいということだと理解。それにしてはルイス・ストローズの存在がでかすぎない?という気もする(どうも『アマデウス』のアマデウスとサリエリがやりたかったようだが)し、オッペンハイマーは別にマンハッタン計画の中心人物じゃないじゃん?ということもあるが、科学者の罪というものを考えさせられる作品ではある。
科学者の罪といえば、アイザック・アシモフのエッセイに「科学者の罪」という一編がある。そこでは、オッペンハイマーの「このとき物理学者は罪を知った」という言葉を引き、科学者の罪というものがあるのかが論じられる。アシモフ先生は、原爆開発については、原子物理学の発展やアイソトープや原発という正の効果ももたらしたとして、罪とはしておらず、第一次大戦で毒ガスを発明したフリッツ・ハーバーのように「有害なことしかもたらさない」発明を罪と規定している。敬愛するアシモフ先生だが、私はこれは科学者に甘すぎると思う。この映画が示しているように、原爆を作らなくても物理学の研究で同様の効果はもたらされたかもしれないし、何よりナチスが敗北してからは、シラードがやったように少なくとも科学者がその先に行くのを踏み止めされる可能性もあった。そう考えるとオッピーがどうかはともかく、罪というか責任はあるのだと認識。

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