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#9 社会人博士体験記 その1

 お盆休みに入り、やっと少し時間ができたので、昨年度まで在籍していた社会人博士課程の経験をまとめてみたい。どなたかの参考になれば。

■社会人博士課程進学の経緯

 私は入社4年目に社会人博士(後期)課程で学生時代の出身研究室に戻り、計3年間在籍して今春無事博士号を取得した。直接のきっかけは、入社2年目の2月に会社の研究所のNo.2に声をかけてもらったこと。
 私の会社では社会人博士課程進学に関する制度はなく、自分から応募したわけではない。なぜ私にこのようなチャンスが巡ってきたか、思い当たる節をあげてみる。

  • 入社当初から新製品開発に励み、上層部に認められた

  • 基礎研究のために博士課程に行くのはまんざらでもないと、社内で話したことがあった

  • 学生時代の指導教員がこの分野の第一人者で、関係性を強化したかった

 理由はどうであれ、私にとってまたとないチャンスだったので、挑戦したいと即答。後日研究室にあいさつに行き、社会人博士課程の学生として受け入れてもらえることに。ただし、応募締め切りが過ぎていたので次年度の申込は間に合わず、正式な試験と面接を経た一年後、入社4年目から私の社会人博士課程が始まった。27歳の春である。

■大学と会社の両立

 社会人博士課程進学に際して、その実施形態について会社とあらかじめ折り合いをつけておくことが非常に重要である。私の会社では、社会人博士課程進学に関する明文化した規則はなく、実施形態についてその都度研究所トップや上司と相談して決めた。
 ありがたいことに私の場合、①社会人博士課程に割く時間は、「会社業務」として扱う(=すなわち、給料が発生する)、②学費や通学費用は、すべて会社が負担することを、承諾してもらった。他社の社会人博士の先輩には、「自己研鑽」の扱いで、業務時間外や休日にしか研究できなかった方もおり、その意味でかなり恵まれていた。

 業務配分については、大まかに週3研究室/週2会社で、休日にも研究室に行かなくて済むよう、会社での仕事量は減らしてもらった。会社側からは、週5大学でもOKとの提案もあったが、3年間も会社とのつながりが無くなるのは、会社人生にとって好ましくないと考え、丁重に断った。
 ただし、この業務配分でうまく回っていたのは最初の1年ぐらい。気づいたら、会社業務は実験やら出張やらで通常の量に戻っており、3年間で2回くらいキャパオーバー。その都度ヘルプサインを出して、業務分担を整理してもらった。週2出張が毎週続いたときは、大学の研究をする時間がほとんどなく、精神的につらかった。。。

 なるべく休日には研究室に行かないように努力していたが、3年目になるとさすがにそうも言ってられなくなり、#8の記事でもふれたように最後の半年は土日も含めてほぼ研究室に入りびたりの生活を送っていた。「会社業務」の原則から見ると、完全にサービス残業である。笑

■研究テーマ

 費用はすべて会社負担にしてもらえたので、会社の役に立ちたいような研究がしたかった。そこで、先生とよく相談し、「会社で研究している機能材について、その本質を明らかにする」ことを研究の目標とした。この機能材は、既に実用化が進んでいたものの、その組成や構造はほとんど明らかになっていなかった。すなわち、会社ではできないような、「ド基礎」の研究をすることになった。

 指導教員には、「小手先に研究して博士号を取るのではなく、○○大学の博士号の名に恥じないような、一人前の研究者になりなさい」、「世界で自分がこの新素材に一番詳しいと自信を持って言えるようになりなさい」と発破をかけられ、研究のモチベーションにつながった。

■研究スケジュールの振り返り

 当初より3年間で3つの異なるテーマで研究を行うことを目標にしており、最終的には無事こなすことができたものの、スケジュール的にはかなりギリギリだった。

 1年目の間にテーマ1の研究は8割程度、テーマ2の研究は4割程度終了したが、その後コロナ禍で在宅勤務になり、研究が半年停滞。その後、緊急事態宣言明けに必死で実験し、2年目冬の時点でテーマ1とテーマ2の研究を完成させた。ただ、論文をまだ一文字も書いていなかったので(卒業要件は査読論文2本)、2年目冬から3年目前半にかけて論文執筆を行い、3年目の6月、11月にそれぞれの論文がアクセプトになった。1本目はリジェクト1回のみ、2本目は一発で通ったのが幸いした。

 一方、3つ目のテーマは3年目から取り組み始め、論文投稿は間に合わなかったものの、なんとか博士論文までにはデータを間に合わせることができた。博士論文は、出版済の論文の内容の転記+General Introductionの追加でよかったので、3年目の9月からちょくちょく書き始めて、12月中旬の締め切りに間に合わせた。

 学会発表は、コロナ禍で2年目に予定していた学会がすべて中止になってしまった。そのため、3年目にオンライン学会を国内外計4件入れるという鬼畜スケジュールを敢行した。
 とにかく3年目が忙しすぎた。もしコロナ禍が無ければ、もう少し余裕をもって卒業できたかもしれない。

(つづく)


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