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挑戦の価値

僕は、4歳の頃に初めてピアノの発表会に出て演奏したそうです。そのときの記憶はありませんが、自分の母親からそのように聞き及んでいます。それくらい幼い頃から、演奏するという行為を当たり前のようにやってきました。それでも、人前で演奏するときには、今でも緊張することがあります。

緊張してしまうときの僕は、失敗することが怖いのでしょうか。失敗しうる完成度だということは、練習が足りないのだともいえます。

演奏面で失敗をしなくても、聴き手がこちらの表現を受け入れない場合も考えられます。聴き手のことを誠心誠意考えて用意した表現が受けれ入れられなかった場合は、あきらめがつくかもしれません。ベストを尽くしたのですから。

どのような聴き手が集まるのかがわからない状況というのは、「こわさ」の原因になりうるかもしれません。たとえば路上での演奏においては、それを聴きにくることが目的ではない人がたくさん往来します。ですが、演奏の音が認知できる範囲内を通行しても、無意識レベルで排除する人は多いでしょう。その場にいた人がこちらの表現を受け入れないことは、実はそれほどおそれることではないのかもしれません。

しかるべき料金を払うなどして、演奏を聴くことを目的としてその場にいる人は、その時間を有意義に過ごそうとする積極性を持っている場合が多いでしょう。そうした人たちの時間の有意義さに貢献できなかったらどうしようというおそれが、演奏者のこころにめばえるかもしれません。ですが、「この演奏会に来たことは失敗だった」と思わせるような機会は、きっとその聴き手にとって貴重な経験となるに違いありません。

その演奏者の表現が特定の聴き手に受け入れられなくても、その演奏に価値がないことにはなりません。むしろ、強い拒絶を引き起こすような演奏は貴重なものです。この演奏者の表現は自分の好みには合わないと知ってもらったほうが、その後のその人のためにもなるでしょう。そういう意味で、演奏者は臆することなど何もないですし、聴き手も、どんな表現にだってどんどん出会うことを積極的にして、好き! とか嫌い! とか、たくさん感じて、感性を磨いていけば、聴き手も表現者もどんどん伸びていく社会になっていくに違いありません。

失敗を臆するこころ。それは、その先にある価値が見えていないことに起因するのかもしれません。一方で、こわさに打ち克ち、踏み出した一歩に伴った失敗にこそ、ほんとうの価値があるようにも思います。おそれを抱くこころも包含したうえで、挑戦あるのみ! ですかね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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