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解釈とか脳内映像とか

ああ、なんか、グっときたし、染みました。信じている。信じたい。それと並行して敷かれる「正しさ」がある。どちらも無視できない、おれがいる。

歌をとらえていると、頭の中(かどうかわかりませんが)にビジョンが立ち上がります。特に歌詞ですかね。もちろん、サウンドから立ち上がるビジョンもあるでしょう。人によって比重はさまざまでしょうね。

そのビジョンというのは、私が勝手に立ち上げたものです。たとえばあるミュージシャンのある曲を聴いていて、私の頭(?)に映像が再生される。それは、そのミュージシャンが供したものでもなんでもなくて、私の解釈です。私が、音楽(と歌詞)という刺激から勝手に立ち上げた独自のものです。もちろん、そのミュージシャン自身によるミュージッククリップの映像が脳内に流れた、なんてこともあるでしょうし、脳内再生映像はとうぜんその楽曲なり音楽なりによって生まれたものです。オリジナルがきっかけとなって、影響して、実現する(脳内?に)ものです。

「とらえ方(解釈)は自由」ということばが浮かびます。私の知る音楽関係者のことばでもあります。「このように受け取りなさい」というオシツケは、命令です。音楽は、楽曲は、命令ではない。

正しいとされることが刻々と変わるという不安定な情勢もあるでしょう。今がそうか? どうか? わかりませんが。現時点での最高を目指して、行動をとります。行動は、入力があってから次のプロセスですかね。まずは反応してしまいます。反射神経のシロモノです。その反応に、自分の起こしたリアクションに、嫌気がさすことが私はしょっちゅうです。ああ、なんであんな風にリアクションしてしまったのだろうと、時を経てから思い出すことばかりです。反射神経のシロモノと、時間をおいてその過程で生まれてくるアイディアは別物です。もちろん、結果的に同じとか似ていたとかいう奇跡もあるかもしれません。稀なことだと思います。いや、しょっちゅうあることでもある…か。

同じ曲なり音楽なりを感じても、二度、三度と重ねると別の体験になります。最初は「なんかいい!」程度だったのが、「ここのベースの跳躍進行がいいな」とか「シンセの音作りとその使い分けが妙!」だとか「ボーカルダブってるな…」とかいろんな細かいことに目が(耳が)向くようになります。再生しているソース(音源)は同じなのに、不思議です。それが、ちくいち、ライブ演奏ともなれば…。いつ、どこで、だれと一緒か。その状況、その時間、その体験は無限ですね。

「ライブ」、空間の共有や距離の近さというものに、なにか懐かしさすら覚えているという、なんともいえんこの頃…。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

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