ことばの利器
風聞は、回るし、転じます。伝言ゲームの要領で、どんどん原型から変化してしまいます。それで変化済みのものをまた元ネタにして、新たな風聞も回るでしょう。もはや、何が真実かわかりません。そうして、一番の「始祖」となるネタ元でさえ、「真実」である保証などどこにもないのです。
少なくとも、「私自身の体験と感性、知識・教養によって真実だと確信していること」だけを根拠にして語る人がひとりでも増えることを願います。もちろん、その「私自身の体験・感性・知識・教養」のところに、専門家のそれを代入してもいいのですけれど、その取捨選択をするのは結局不完全な自分です。私はどこかでそれを見誤るかもしれない。ならばやはり、「私が責任を持って言えるのはここまで」という範囲をいつも意識して、ことばを選んで発していくのみだと思います。
私が生まれる前から、この惑星には先輩たちがいました。私のすべては、言うなれば、すべての先輩たちのコピーです。それが、私という固有のバランスでミックスされているというだけ…なんて見方をあえてしてみます。私は、先輩たちが築いた世界において見聞きしたこと・体験したことを、いつもどこかで、まるで自分のことのように語り、実践していくのです。もちろん、自分の誕生以後は、自分の存在もまた世界に作用しますから、コピー元である「世界」に、私自身が含まれているという循環?(矛盾?)があります。私がこのワンワールドのピースとして嵌ると同時に、世界が私というワンワールドのピースのひとつでもあるのです。
元ネタが確かなものかどうかは別として、「ことば」がひとたび人を動かして、この世界に作用すれば・その姿かたちに影響をおよぼせば、それが事実になります。元ネタがそもそもフェイクで、それに従って行動を起こし、世界の姿を改悪してしまった場合、それは過ちです。何事も、元通りに装うことはできても、決して取り戻せはしないでしょう。ことばは、行為の原資です。
その「ことば」をやりとりする手段の俊敏さ・手軽さがそのまま、私やあなた自身の安全にも危険にもなるのですね。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎
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