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Rakkan

災害が起きたとする。僕は運良く逃げのびることができたとする。お気に入りのあれも、楽しみにしているそれも、ぜんぶ置いて逃げてきたとする。

運良く僕は家族と一緒に逃げのびることができたとする。僕の息子はまだ小さい。彼は家ではいつも何かしらのおもちゃで遊んでいるが、そういったものたちもすべて置いて、逃げてきたとする。命あってのおもちゃだ、仕方ないとする。

逃げのびて、非常時のくらしが始まるとする。そこにある何かを息子は、気に入ったとする。たとえば、急ごしらえのコップだとか、僕ならごみにしてしまうような副次的に生じた容器包装の類だとか、そういったなにかしらの物質を息子はおもちゃにしだしたとする。一晩を過ごしても相変わらず非常事態の生活はつづいているとする。息子は昨日見つけたお気に入りの即席のおもちゃで遊びながら、今日もまた別の何かお気に入りを見つけて遊び始めたとする。

いま、食うものがない、住む場所がないとする。そんなときに僕は、どれだけ明日を楽しみにする心を持ち続けられかどうかわからない。

でも、そこから希望を見いだそうとするだろう。今は腹いっぱい食えないかもしれないけれど、腹いっぱい食える未来をたぐり寄せてありつくことができるかもしれないと考えて、手近な岸辺を頼りに泳ぎだすだろう。

「それがあるから、明日がうれしい」というものは、おまんまに限らない。何が「まま(めし)」にあたるものとなるかは、その人にもよるだろう。本当の飢餓を知らない者の楽観だと言われれば、それも否めない。そう、僕はいつも、楽観している。

お読みいただき、ありがとうございました。


#楽観 #日記 #エッセイ #非常時 #おもちゃ

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