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雑記集

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雑草という名前の草はない。 雑記という名前の記事もない。
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2018年9月の記事一覧

みまもる、しあわせ。

みまもる、しあわせ。

いい未来を匂わせてそちらへ導こうという仕掛けがあると思います。「提案」といったらよいでしょうか。ここでいうのは、だれかが一人勝ちするようなものでなく、みんなが幸せになれるような種類のもののことです。

その反対といっていいのか、わるい未来をつきつけて人をうごかそうとする仕掛けがあるようです。これが、「脅し」でしょうか。こうしておかないと、こうなりますよという不吉な予言みたいなものでしょう。不条理

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「なんもねぇ」の高低差

「なんもねぇ」の高低差

よく、じぶんの住む町を評して「なんもねぇ」と言ってしまいます。そういいつつ、退屈したことはありません。「なんもねぇ」と評しがちな町は、「なにかする」にはもってこいなのでしょう。「なにかしている」うちは、決して退屈することはありません。

なにをもって「なんもねぇ」などといってしまうのでしょう。目立った構造物の有無でしょうか。人工的なものでなくても、目立った自然でもあれば「なにかある」うちに入る

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出鱈目な湯気

出鱈目な湯気

何度も通ってしまう店があります。飲食店なのですが、いつ行っても、うまいのです。食べるたびに、「今日もまたうまいなぁ」と驚き、感心してしまうのです。まったく同じメニューを繰り返し頼んでもそういったことが起きるので、ひょっとしたら僕は一度食べた味を忘れてしまい、その都度味わって感動しているんじゃないかと不安になります。

同じメニューを繰り返し頼んでも感動するわけは、どこにあるのでしょうか。そのひ

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AIは幸せを感じるか?

AIは幸せを感じるか?

この人は幸せ、この人は不幸せ……と、生まれながらに烙印を押されてこの世に出てくるわけではありません。

生まれてきたらもうすでに世の中にはいろんな人がいて、彼らをその目に焼き付けながら生きていくうちに、これは幸せかもしれない、これは不幸せかもしれない、といった具合に認知する価値観のようなものが築かれていくことでしょう。

そうすると、そのうちAI(人工知能)なんかも「幸せ」を感じるようにな

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「わたしたちは……」に続く本文

「わたしたちは……」に続く本文

仲間としての連帯感「わたしたちは……」

「わたしたちは……」ということばで語りはじめるとき、自分たちにある程度の連帯感があることを示しているのだと思います。なにをもって「わたしたち」とするのか、その共通理解がある程度築かれていることが前提といえそうです。自分の所属する部やサークルを語るとき? 家族? 職業に関わること? 国民性? さまざまな場面で、「わたしたちは……」がつかわれます。

付き合

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I野家の劇的な日常

I野家の劇的な日常

物語の被写体として、「家族」が描かれた作品は多いでしょう。「家族」とは、それだけ人間の「寄り集まり」として普遍的な単位といいますかカタチといいますか、関係性なのかもしれません。

ひょっとしたら日本で一番有名かもしれない架空の家族のうちのひとつが、「磯野家」でしょうか。この家には、妻、夫、長女、長男、次女、長女の夫、長女とその夫の間の息子、タマ(猫)という7人+1匹が同居しているようです。長女

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無言に込めた言

無言に込めた言

僕は、「去り方」がへたなのかもしれません。なにも言えなくて、無言を返して、しれっといなくなってしまうことがあるようです。それで、そのことをあとになっても自分で気にしているのです。まるで「別れも言わずに黙っていなくなった奴」という冷たい目線を自分に向ける村を、この世界に増やしていっているみたいです。

そんな原因をつくった自分を、愚かだなぁとも思うのですが、実際、そのときの自分にはそれしかできな

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土踏まずの退屈

土踏まずの退屈

足の裏にある、からだの内側に向かってくぼんだカーブを「土踏まず」と呼びますね。

都市での生活をしていると、そもそも土があまりありません。(あっても、靴履いてるし。)ということで、内側にくぼんでいようがいまいが「土踏まず」なのかもしれません。都市での生活に起因して、くぼみがなくなりつつある人もいるとかいないとか聞いたこともありますが、ほんとかどうか知りません。「土踏まず」がなくなったら、足の裏ぜ

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(中略)おばちゃんとの遭遇確率

(中略)おばちゃんとの遭遇確率

「アニマル柄の衣服をまとった派手なおばちゃん」は、大阪名物として数えて良いのでしょうか。たとえば通天閣は、いまのところ現地に行けばいつでも必ずあるでしょう。しかし「アニマル柄の(中略)おばちゃん」はナマモノですから、いつ行っても会えるとは限りません。僕はこれまでに2度大阪を訪問していますが、1度目の大阪訪問のときに、心斎橋付近の商店街で見かけたような気もします。僕の記憶が「見た」と改竄されているだ

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枝葉の先の「永ちゃん像」

枝葉の先の「永ちゃん像」

いつだったか、僕は実家でテレビを見ていました。画面に映されていたのは、いろんな有名人にまつわるエピソードを1分間で紹介する番組でした。

次々といろんなエピソードが放送されていくなか、あるミュージシャンのエピソードが紹介されました。そのミュージシャンが歌詞の中で用いる「おまえ」という単語が指すものは一体誰なのか? という趣旨で、単刀直入に1分間で示されたその答えはつまり、「その人自身」なのだとい

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闇の総力

闇の総力

夜の森は、暗い。街灯もない。月明かりに左右される、視界。

僕は、たまに夜の森をあるく。1年に1度か2度のことである。夏の間に、2、3泊(ゴールデンウィークのこともある)。住んでいる街をはなれて、高原の涼しいところに滞在する。

夜道は、ぞっとするくらい怖い。普段住んでいる、東京の街だったらそんなことはない。僕は、闇を怖がっているらしい。何も見えない、わからないことって、そんなに怖いのか。

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未最適主義者の鈍感

未最適主義者の鈍感

僕が愛用しているヘッドフォンがあります。密閉型でごてっとした重めのものなのですが、イヤパッドの少し上のアームの部分が内側に折りたためるようになっていて、たたむといくぶん小さくなって見えます。僕はこれを滅多に持ち歩きませんが、持ち運びにも便利というわけです。妙にちんまりと収まっている感じが、かわいく思えます。ふだんは明るく元気にしているひとが、風邪をひいて首まですっぽりと布団の中に収まっているような

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僕の死期

僕の死期

幼い子や、10代くらいの子たちが、32歳の僕にとっては「ちょっと前」くらいの過去を、さも「むかし話」かのように語ることがある。語られた「むかし話」の事由発生日から経過した時間がたとえば3年だったとしたら、僕にとっては人生の10分の1程度の経過時間になるけれど、10歳の子にとっては、人生の3分の1程度、仮にものごころついてからを経過時間カウントの対象にしたとしたら、2分の1に迫る程度、ということにな

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うるさい無響室

うるさい無響室

ただただ、うなずくしかないときというのがあります。その対極には、「それはね、(僕はこう思うよ)」といってすぐに反応したくなるとき、というのがあります。

「うなずくしかないとき」というのを、もう少しこまかくしてみます。

相手がとても真摯にものごとと向き合い、自身の経験を参照し、それをふまえて考え抜かれた結論を話してくれるとき、僕はただただうなずきます。

もしその先に、「僕もね、そう

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