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「わたしたちは……」に続く本文

仲間としての連帯感「わたしたちは……」

「わたしたちは……」ということばで語りはじめるとき、自分たちにある程度の連帯感があることを示しているのだと思います。なにをもって「わたしたち」とするのか、その共通理解がある程度築かれていることが前提といえそうです。自分の所属する部やサークルを語るとき? 家族? 職業に関わること? 国民性? さまざまな場面で、「わたしたちは……」がつかわれます。

付き合って決めてもらうための自己紹介

「自分は○○です」と言い切れたら、わかりやすいです。「自分の長所は、○○です」「自分は、○○家(屋)です」「自分の名前は、○○です」……固定された事実を紹介することもできますが、主観的な評価を語ることもできるでしょう。関わりあうには相手の存在が必要ですから、「ヨシ、これからこの人と関わりを持ってみよう!」と思ってもらえるような自己紹介が良いのかもしれません。

中庸の話

「中庸」という概念を聞くことがあります。その厳密な意味、あるいは抽象的で広がりのある概念について語るとしたら、ひょっとしたら人生をいくら費やしても足りないくらいに奥深いものかもしれませんが、ここでは「まぁ、過熱しすぎず、ほどほどにね」くらいにとらえておくことにします。相手のいいところを知って、主観的に盛り上がってついつい入れ込みすぎてしまうことがあるかもしれません。そうすると、入れ込まれた相手にとっての「今後もいい関係で付き合い続けたい相手」の範疇を、逸脱してしまうかもしれません。「盛り上がるな」「夢中になるな」というわけではありません。情熱は持っていたいし、夢中になれるものの存在は、人の道を歩むうえでぜひともあってほしいと思います。

合理的にいいところを示すのが、広告・宣伝の使命?

広報の使命というのは、「そのものらしさ」を伝えるべきところに伝える、とでもいえましょうか。これが的はずれなところにさらけ出されてばかりでは「なにをお騒ぎになっていらっしゃるのかしらね」と思われても仕方ありませんし、適切に知られる「場所」にさらせたとしても、「おや、これはぜひとも関係を結びたい!」と思ってもらえるような表現が成立していなければ、やはり通り過ぎる「背景」のひとつになってしまいます。

わたしだけにあう理論

「効率よくなにかの作業を済ませることを実現するアイテム」があったとします。効率よく「その作業」を済ませたいと願っている人のもとに、その存在が伝わったらよい関係が結ばれるかもしれません。そして、「効率よくその作業を済ませること」をよしとしない人がいてもおかしくありません。むしろ、同じ事象に対して違った評価を下す人がいるほどに、その集団は豊かなのだといえそうです。なにをもって「効率よく済ませられた」と評価できるのか、という軸も多様であって良いと思います。お互いの違いを認め合える世界、そこで成立する「わたしたちは……」に続く本文を、僕らは書き(描き)続けていくのでしょう。

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