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闇の総力

夜の森は、暗い。街灯もない。月明かりに左右される、視界。

僕は、たまに夜の森をあるく。1年に1度か2度のことである。夏の間に、2、3泊(ゴールデンウィークのこともある)。住んでいる街をはなれて、高原の涼しいところに滞在する。

夜道は、ぞっとするくらい怖い。普段住んでいる、東京の街だったらそんなことはない。僕は、闇を怖がっているらしい。何も見えない、わからないことって、そんなに怖いのか。わからなくたっていいじゃない、なんて思うのは、いま僕が明るい部屋の中にいるからか。

真っ暗闇でも、誰かと一緒だったら心強そうだ。誰かと一緒にいたとしても、真っ暗闇のほうが変化するわけじゃないのに、不思議だ。怖さは、対象が変化しなくても、こちらの持ち駒に合わせてその度合いが変化するらしい。

対象が自分に与えるかもしれない危険なことがあるとする。誰かと一緒にいることで、その危険が減るのだろうか。

たとえば、強大な敵と闘わなけりゃならないとする。こちらの総力が増えれば、個々の味方が受ける1人当たりの敵の攻撃力は分散される。これなら、「危険」が減ったと思うのにじゅうぶんな理由かもしれない。

一方、相手が真っ暗闇だったらどうだろう。誰かと一緒にいても、暗さそのものが変化するわけじゃない。ぴかぴか発光する仲間なんてのは反則だ。ここでは考えないことにする。闇に総力があって、それを受ける1人当たりの負担が分散されるのか。それはどうだろうかと思う。闇に総力なんてものがあるとしら、無限にあるんじゃないかしらと思いたくなる。限りのないものなんて、そうそう身の周りにころがっているものじゃない。でも、限りあるものが存在すると認めた場合、限りないものだって存在することになりはしないだろうか。闇はやっぱり、強大に思える。

まったく何も見えない闇の中だったら、仲間と手をつなぐでもしないとお互いの存在を認識し続けられないかもしれない。声をかけあうとかでもいいのだろうけど、そのことが仲間が相変わらず存在していることの証明に、必ずしもなりはしない。いつ、握りしめている仲間の手から先が「消えている」とも限らない。聴こえている「声」は、忠実なスピーカーから再生される「音」に、いつの間にかすりかわっているかもしれない。

「闇」が怖いのは、僕らの想像力のせいなのか。連れだったり、群れたり、大軍をなしたりすることには、想像力を麻痺させる効果があるのかもしれない。

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