夏至に心の籠の鳥を解き放った
夏至の日に頭を剃った。長く抱えてきたものを手放したいので、その勢い付けに剃った。前から丸坊主にしたいと思っていたが、なかなかそのチャンスがなかった。今回の夏至はいらないものを手放し、前に進むいい機会とどこかから聞いていたし、これからは熱い日が続くので頭を剃るのにいい時期だと判断した。
もともとかなり短い髪だったので、「さっぱりするか」ぐらいの気持ちだったが、いざ刈る段になって鏡の中で髪が落ちていくのを見ると、ちょっとドキドキした。が、正面を刈り終わると、あとはきれいにスッキリといい仕事をしようという気持ちになって、後ろまでしっかりきれいに剃った。初めてだったので、バリカンの使い方に慣れていず、後頭部から血が出ていたのを後で知った。
次の日、10人ぐらいの友人たちの集まりで、夏至の日にちなむ焚き上げに誘われていた。手放したいけれどもなかなか手放せないものを燃やすという目的の集まりだ。私は一冊500ページはある本2巻と、もう一冊の本を燃やすことにした。東洋医学の専門書だ。
6年半前に鍼灸師/漢方医を辞めた。20年間天職だと思い、人生を捧げた仕事だったが、知らない間に私は人に受け入れられたい、この社会での存在価値を認めて欲しいという気持ちに引きずられて無理をしてしまい、体を痛めて続けられなくなった。もちろん、その当時はそんなふうに思っていたことさえ知らなかった。ただやりがいのある、面白い仕事だとしか思っていなかった。
無意識というのはすごいもので、人の行動の90%以上は無意識に操られているという。そして無意識というのは8歳ぐらいまでの間にその土台が作られるらしい。子供の頃に親や他の大人に教えられることで、人間本来の無邪気さや、社会の枠とは関係なくやりたいこと、存在の本来の姿というものをどんどん歪められて親や社会に受け入れられるように教育される場合が多い。つまり他人軸で生きている。が、ほとんどの場合気づいていないし、社会的にそれが受け入れられているので、本人も気付きようがない。何らかの形でこれはまずいと思ったり、嫌な思いをすると、初めて考え出す場合が多い。
私の場合もこれで、体が辛くなって仕事を辞めてしばらくして初めて気づいた。東洋医術の世界は確かにおもしろいのだが、どうして体を痛めてまで人を治療することにこだわるのか、というところが問われないままだった。鍼灸師であることで、人は私を大切な人だと思ってくれたし、私の存在価値を認めてくれた。振り返ってみると、私は人に認められることに大きな満足を感じていた。逆に言えば、人に認められなければ自分には価値がないと信じていたということだ。こういう人は案外たくさんいる。理由はさまざまだ。
私の場合は、自分の性自認と深く関連がある。小学5年ぐらいから、はっきりと他の子供たちとは違う自分を意識し出した。よく「あの子、男の子、女の子?」とひそひそ声でささやかれるのを耳にしていた。体は女の子であったときから、女の子に強い性的関心を持ったし、中学2年のときに初めて女の子と寝た。半世紀近い昔なので、親を含む周囲は理解も何もなかった。ただひたすら白い目の中で、自分の性エネルギーを生きていた。結果として、自分はこの社会には属さない人間で、隅っこの方でコソコソと生きていくしかない、と思い込んだようだ。社会に出てからも、なんとか生きることをしてきたが、自分がやりたいことをして生きるというのは発想の中になかった。それで、日本を脱出してアメリカに住んだ。
外国に住むと、もともと自分は属してない社会だという前提があるので、期待も少ない。しかも、アメリカは基本的に放っておいてくれる国だ。日本のようにおせっかいではない。私にとってはとても居心地がよかった。ここでなら、小さくも自分のやりたいことをしていいと思えた。それで出会ったのが東洋医術だった。治療というのは人に喜ばれることでもあり、尊敬までされ、この仕事をしていく中で社会の一員として生きている感覚を持った。この社会でも受け入れられる枠を見つけたのだ。これさえやっていれば、私はかなり変わ者でも大丈夫と思えた。だから体を痛めてでも続けた。
そういう仕事を辞めてから6年半も経っているのに、心の中で完全に手放すことができずに苦しんでいた。社会に受け入れられることの旨味を味わったから、いつか治療家方面に戻れるのではないかという思いを手放すことができずにいた。そしてヒーラーという人たちや、治療に関わる人たちに対して、苛立たしさと羨望の混じった複雑な思いを抱いてきた。
しかしこの夏至の日、もうこの過去を手放すことでしか、前に進むことはできないと感じ、自分のアイデンティティのような専門書を燃やすことにした。分厚い本だったので、数ページずつ破っては火にくべる作業をしなければならない。そこにいた一人が、「この本は病気の百科事典のようなものだから、これを燃やすとみんなの病気が治るね。」と言ってくれたので、私だけでなく、みんなも積極的に参加して一緒にこの本を燃やしてくれた。いつも精神的には独りで生きてきた私にとって、こんなに私の個人的な手放しの作業にみんなが参加してくれたことは思いがけず嬉しいことだった。
そんな手放しで、鍼灸師として社会に認められる自分に対する太い手綱を切り、葬った。そんな重いものを燃やし白い灰になった後、そばに大きなガジュマルの樹の一部でできた自然のブランコがあったので、それに乗ってみた。その樹が私を呼んでいた。大きな樹の下でその根の一部をうまく絡ませてできたブランコに揺られると、子供に帰ったような気がした。社会に受け入れられるための重い鎧をやっと脱ぎ去って、軽くなり、思い切り心なく遊べた。久々に純粋に幸せと感じるひと時だった。
このことをある人に話したら、放生会(ほうじょうえ)という、死ぬ運命にあった生き物に命を与えて解き放つという仏教関係の儀式のことを話してくれた。私は、社会に受け入れられたいというカゴに入れられて死にかけていた自分の鳥に命を与えて解き放ったのだと深く納得した。