勉強ができると頭が良いの違い

よく、「頭がいいね」と言われると、勉強ができるねという意味と、頭が切れるねといった意味合いがあると思います。

この違いは明確にあるように思います。
ということで、今回はこの辺りを考えていきたいと思います。

勉強ができるの勉強とは

勉強ができるの意味合いは、ほぼ学校での勉強ができるという意味です。
しかも、そこには音楽や図工ができるといった意味はほとんど入ってきません。(音楽も図工も大切な学校の勉強なはずですが)

ほとんどの意味で、勉強ができるというのは、テストでいい点数がとれる。特に受験で使う5科目がこれに当たります。

それもそのはずで、今ではその意味は薄れつつありますが、受験というのはより良い大学、より良い学歴を求めるものです。なぜなら、学歴によって収入に差が出てくるからなんですね。これを学歴社会と言います。

収入が高くて文句を言う人はそんなにいませんから、より高い収入であるなら嬉しいですし、良いことであるわけです。そして高い収入には高い学歴を得ることが必要、高い学歴を得るためには、受験で良い成績が必要、受験で良い成績を取るためには、5教科の点数がよくないといけません。

これは、受験の内容のせい(おかげ)でもありますが、受験が基本的に知識を問う問題であるため、知識を活用する力よりも、知識を効率よく覚え、適切な問題にその知識を思い出すということが、問われてきます。

(数学などの一見知識を覚える教科ではないものも、受験でより良い点数をという視点から見ると、傾向や、問題パターン、解き方を覚える方向によりがちです。)

つまり、勉強ができるの意味の「頭がいい」とは、受験に必要な科目において、非常に効率的に覚えて解くのが得意だね。という意味になります。

嫌味に聞こえた方もいるかもしれませんが、私は勉強ができるも非常に大切な能力だと思っています。そもそも、知識がなければ、それを活用することもできないので、覚えることも非常に大切です。
(よく詰め込み教育と聞くと悪い意味に聞こえてしまいますが、要はバランスの問題ではないかなと思っています)

勉強ができるじゃない、頭がいいねとは

よく頭がキレるね(頭がいいね)という言葉を聞きます。そうした言葉を使うときは、学校の勉強ではない、それ以外の場面で頭が良い場合にも使われます。

当然ですが、学校で測っている能力というのは、すべての能力のうちの一部です。
少し前に、「魔法科高校の劣等生」というアニメ作品がありましたが、この作品の主人公の能力が、学校的な測り方ですと、測定できずに劣等生となっていますが、実際の戦闘では非常に強い能力を発揮するということがありました。

これは非常にわかりやすい例ですが、「勉強ができる」はテストという形で評価される能力です。魔法科高校だと特定の測り方に適応した人が優等生ということになるでしょう。
私たちの世界だと、テストができないのに、勉強はできるということは、まずないでしょう。つまり、テストという測り方が大切になってくるわけです。

「頭がキレる」は逆にいうと評価基準が特にない能力です。実際に頭がいいの大半が、評価基準がない、感覚的なものではないでしょうか。実際の能力というのは、測り切れるものではなく、曖昧なものです。
その場面でパッと解決策を思いつくような複合的な力もあるでしょうし、議論の時に上手に反論することも頭がいいなと思う力の一つでしょう。

そういう様々な力を測りたいと学校やら企業は思っているのでしょうが、テストはある種、苦肉の策のような気もしています。
最近、受験に面接や小論文といったいわゆる暗記ではない「テスト」方法を取り入れようとしていますが、評価方法の基準が客観的ではなく、主観的なものになりがちで、対策がしづらく、受験生からの人気は低いですよね。
公平な能力計測という意味では、暗記型のテストは有用なようです。

しかしだからといって、暗記型のテストで測れる力はごく一部です。
実際に自分の力を発揮するという視点や、現代のグローバル社会にあった人材育成という視点、主体的な学習という視点においては、あまり有用とは言えません。(まあだからといってもすぐに変わることはない気がしますが)

そのため、暗記主体じゃない入試制度の改革が叫ばれていますが、もし実現した場合はおそらく「勉強ができる」の意味がきっと変わるのでしょうね。

みんな頭がいい

最近は様々な能力が提唱される、複雑な時代になってしまいました。
昔みたいにとりあえず効率よく覚えて、いい大学いったらはいオッケーともいかなくなってしまったので、ある意味「勉強ができる」で止まってくれた方が気が楽だったかもしれません。

しかし、少し勘違いされている気もします。現在求められている、複雑な能力をすべて兼ね備える人物というのは、よほどの超人でない限りいないでしょう。なぜかスーパーマンのオールマイティにできる人物を想定しがちです。

本来、一つの能力じゃない力が提唱されたのは、特定の能力で測れない「劣等生」をだしてしまったからでもありますが、そうした状況を考えると、様々な能力を認めて、広く個々人が評価をしていくことが必要なのでしょう。

色々な能力を認めて、互いに補完したり、特化して伸ばしたりでき、様々な能力が「頭がいい」と評価されるような、世界になってくれると「劣等生」が少ない過ごしやすい社会になるのではないかと思います。

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