ムダという言葉の危険性

会社のムダを無くそう、家庭の支出のムダを見直そう、そんな言葉が飛び交っています。
しかし、ムダと切り捨てたものは、本当にムダだったのでしょうか?
また、ムダという言葉が社会の分断をより広げてはいないでしょうか?
今回はムダという言葉を考えていきましょう。

ムダをなくそうという社会

私たちの住む現在の日本社会は、十分に豊かな社会であると言えますが、同時に衰退が始まっている社会であることも否定できません。
戦後に起こった高度経済成長期の栄光は見る影もなく、オイルショックからバブル期までの安定した経済成長も影を潜め、いわゆる低成長と呼ばれる時期に入ってきました。

日本の政府は、なんとかこの事態を解決しようと、新自由主義的な構造改革を推し進めていきました。
新自由主義的な構造改革というのは、市場原理という、市場の手に任せておくと最も効率の良い位置に落ち着くという考え方を再評価したものです。

例えば、公的部門の民営化、政府介入を極小化すること、財政緊縮などなど、世界的な潮流でもありました。

実際の政治的な動きとしては、例えば郵政民営化や国鉄の民営化(JR)など、元々国営で運営されていた施設を民営化などです。

このような、民営化の狙いは市場原理に任せ、自由な競争をさせることで、非効率的なものは潰れて、効率的なものが生き残るというものです。

この考え方は現在でも、広がっており、指定管理者制度のように、公共施設を安い値段で民間に運営させるような制度もできています。

もちろん、民営化にはメリット、デメリットの、双方があり一概に良し悪しが言えるわけではありません。
しかし、大切なのは効率的なものは善で、ムダ(非効率)は悪という考えが浸透してしまうことではないかという疑念です。

ムダは悪?

人間という生物は善悪を考えることができます。
例えば、同じ殺人という行為でも、道端で突然人を刺し殺したら悪いやつだと思いますが、戦争で人を殺した人を悪人だと思う人はあまりいません。(むしろ時代によっては英雄と考える場合もあります)

私たちはその時々の社会の文化の影響を受けて、善悪の判断をしています。
現在の社会では、効率的というものをあまりにも求めすぎて、反対にあるムダというものを悪いものだと感じやすくなっています。

近年、片付け術などといって、物を捨てることも流行っています。
「物の8割不要」などと主張する人もいます。
こうした人たちの根底にあるのは不要なもの(ムダ)は捨てたほうがいいと言う発想です。

よく似た考えで、現在の大量生産、大量消費といった消費文明の中で、安い商品の大量消費をやめ、品の良い長持ちをするものを使おうという考えもあります。

これもムダを無くす感覚に見えますが、これはどちらかと言えば地球環境や持続可能な社会を意識した考えであるので、極端に消費文明は良くないなどとならなければ問題はムダは悪という考えとは異なる考えです。

勘違いをしてはいけませんが、確かに部屋の大きさには限りがありますし、ゴミを貯めていけば衛生的にもよくありません。
ある程度限界に合わせて、不要な物を捨てることは、必要なことです。
しかし、「物の8割は不要」というのは、明らかにムダなものがあることは良くないという価値観に囚われているといえないでしょうか。

生活の中にまで、明らかに効率化の極みにまで、行こうとする。
価値観の根底にムダは悪という感覚がないでしょうか?

ムダという感覚が社会の分断を促す

ムダをなくそうというのは、元々はお金を稼ぐ発想から来ています。
無駄という漢字は「」が馬に積まれた荷物を表しており、「無駄」は馬に積まれた荷物がないつまり、お金が手に入らない。

お金が手に入らない=無駄ということになります。

ほとんどの物をムダだと主張する人たちも、物を置くことを土地代がかかっているという感覚を持っていたり、不要なものがあることを損していると思っていることもあります。

お金が手に入るか入らないか、損得勘定でムダという言葉が語られます。
この言葉の危険性は社会の分断を招いていくことです。

様々な理由、事情がありお金を稼ぐことができない、例えば障害を持っていたり、鬱病などの精神病を患っていたりと損得よりも日々の生活にまず目を向けなければならない人たちもいます。

こうした人たちをムダ=悪と考える人たちは、社会に必要ない、それを守っている社会はおかしい、俺たちは働いているのに、なぜお金を稼げないムダな人たちを養わないといけないんだ、などと生活保護や障害者手帳は特権だ、貰いすぎだなどと主張する人も現れてきます。

もっと身近なところだと、「あいつは仕事ができない給料泥棒だ」そんな考えもムダ=悪という感覚に囚われています。
これがもっと進んでいくとムダなものは全部カットしていこう。効率的な人間以外はいらないなどと世迷言を言い始めます。

そもそも効率が良いというのは、金銭的な価値観という非常に偏った見方からしか見ていません。
もちろん企業は利益を追い求める存在なので、ある程度効率化を求めようという考えを持つのは十分に理解できますが、それを極めすぎれば人間の必要性はなくなります。

その日体調が悪ければ、効率が落ちますし、ペットが亡くなれば、仕事なんて手につきません、昨日、親や夫婦で喧嘩した次の日の効率も落ちてしまいます。
人間は、賃金を上げれば効率的になります、というほど単純な存在ではありませんし、ムダを認めなければ、人間は必要ありません。

ムダは悪と考えるのはやめる必要がある

私たちは非常に不十分な存在なので、ムダは良くないと思うと、生活からありとあらゆるところにその観点を適応させたいと思ってしまいます。

高齢者と若者の分断、障害を持つ人と持たない人の分断、様々な分断の一因になっているのはムダは良くないという偏った発想です。

かつて民主党政権の目玉に予算の無駄を無くすと事業仕分けを行ったことがありました。
民主党政権は新自由主義的な改革を推し進める勢力でもあったので、財政をスリム化しよあとしていました。
国家財政のムダを無くすというのは、批判も賞賛もあり、筆者は詳しくありませんが、政治的にムダを無くすことが必要だとしても、ムダを無くすという価値観を1人1人個人にまで適応する必要は全くありません。(私たちは政治の主体であり客体でもありますが、特定の価値観のみが正しいとは言えません)

現在、資本主義経済の中に私たちは生きており、その中で適応する必要がありますが、あくまで労働などの中での話であり、私生活やプライベートの中でまで価値を共有する必要はありません。

ムダな時間の有意義なこと、買った方が安く早く手に入れることができるのにも関わらず、自作する。
趣味で好きな本を読み、感想を連ねる。パズルやボーッと犬を撫でながらいる時間もムダですが、非常に大切な時間ではないでしょうか。

良く本を読むことをムダというと、本はムダではないと言いますが、ムダに本を読むという経験をしたことがない人かもしれません。
本を読むとその瞬間では全く意味が理解できてないものや、今後の人生で全く使えなさそうな知識が詰まった本など、ムダにあふれたものもたくさんあります。

私たちはムダなことをするために生きているのではないかと、筆者は考えています。
時間のムダということがありますが、この記事は一円のお金にもならないという意味では、時間のムダですが、自分の思考を整理したり、疑問を知識に変えたりする時間は有意義なムダです。
毎日、ペットを眺めながらボーッとすごすのも非常に有意義なムダな時間です

ムダを楽しむ、教育の目的は人格の完成ですが、けっして効率的で合理的な人間になることが人格の完成ではなく、ムダを楽しみ、日々のムダに感動的に生きることの方が、良い人生であると言えないでしょうか。


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