教育の二つの対立軸

教育という行為が近代以降に注目されるようになってから、常に2つの考え方の対立があります。
おそらく読んでいる皆さんも体験したことがあるのではないかと思います。その2つとは

詰め込み教育
  VS
主体的な教育

この二つの対立軸がありますよ、というと簡単に主体的な教育の方が良いんだという人がいます。
本当にそうでしょうか?もちろん詰め込み教育に弊害があるのは明白です。行き過ぎた詰め込み教育は暴力となります。しかし、その逆もまた同じではないでしょうか?

今回はこの二つの対立軸を見てみたいと思います。

人権と見つけてしまった「こども」

今日のような学校ができ始めたのは近代という時代以降だというのは皆さんもよく知っていると思います。
ではなぜ学校はできたのでしょうか?
理由はいくつかあるのですが、その中の一つに「人権」という考えが生まれたからという理由があります。

人権とは、「人が生まれながらにもつ権利」です。
権利とは持っているだけでいいかと言うとそうではありませんね。権利は行使するものです。
当時の知識ある人たちは、権利について考えました。
そこでとある問題が生まれてしまいました。
「生まれながらに権利はあるけど、まだ未熟なこの生物達をどうしよう」と、子どもは今ほど重要視されていませんでしたし、「小さな大人」として認識されていました

参考文献 フィリップ・アリエス(1980)杉山光信・杉山恵美子訳 『〈子供〉の誕生:アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』 みすず書房

そこで、「子ども」には、「大人」になるまで、人権を行使できる人格になるように、教育しようと考えるようになったのです。

たしかに、子供にも権利があるからといって、赤ちゃんに「あなたには自由の権利があるのよ」と言い聞かせて、放置しておいたら、死んでしまいますよね。当然保護することが必要なわけです。

ここで、大きな矛盾が発生してしまいました。
子どもは、他律(他の大人の教え)を通して自律(自分で権利を行使する主体)しないといけないということです。

教育の中には最初から詰め込み教育と主体的な教育という二つの考え方が、同時に生まれてしまったのです。

詰め込み教育の図解

少しわかりにくくなったので、詰め込み教育の考え方を見てみましょう。この考えでは他律を通して子ども達に知識を与えていきます。


詰め込み教育のイメージは印刷機(プリンター)です。真っ白な紙(子ども)をプリンター(教師)が印刷(教育)をしていくという図式です。

しかし、残念ながら子どもは真っ白な紙ではなく意識をもった主体であるため、この図式通りに行くと、よく紙の分厚さが違ったり、折れ曲がっていたりとプリンターが詰まります。(教師と子どもがぶつかります)

詰まったらどうなるでしょうか?
教育ができませんね。となると無理矢理紙を戻したりしようとするわけです。
こちらの図の方がわかりやすいかもしれません

元の製作者が誰かわかりませんが、先生が子どもを同じ形に切りそろえていくというのは先ほどの詰め込み教育のイメージと合うでしょう。
つまり未熟で不揃いで社会性のない真っ白な子どもを同じように切りそろえていく、これが詰め込み教育的なスタンスです。
とうぜん反発されることもありますが、そこは押さえ込んでいくわけです。

これだけ聞くと悪の権化のようにみえるかもしれませんが、主体的な教育はどうなのでしょうか?

主体的な教育の図解

主体的な教育では、真っ白な紙とは異なり、子どもの中にあるものを大切にしようとします。
ルソーは消極教育と呼びましたが、子どもの自然な発達に合わせ、まわりがそれのサポート(一定の方向になるように)をしようという考え方です。

図にするとこのようになります。
子どもは種であり、教師は成長を支えるために水をあげたり肥料をまいたり時には支柱をさしたりします。そうすると自然と花が開くというものです。

子どもの個性を尊重するという考えはここから来ているということがよくわかる図になると思います。
しかし、この種はピンクの花が咲くことがあらかじめ個性として決まっていると既に思い込んでしまっています。
さらに、自然な発達を遮らないように成長を促すというのは、もはや人間が人間に施すことではありません。上位者が下位のものにちょうどお釈迦様が掌で哀れな人間を転がすようなイメージとなります。

確かにこの方法で行くと子どもとぶつかることはありません。子どもの主体的な自然な発達の通りに促していく(または誘惑していく)だけなので、詰め込み教育のように無理矢理押さえ込まれることもなく、かつ本当は仕組まれていますが、自分で行う、自分で決めるということが尊重されます。

しかし結果として、主体的な教育は子どもの中にあるものを大切にするがあまり、子どもを人間として扱っていないし、詰め込み教育は子どもが何もできないと思って、無理矢理教え込んでしまいます。
どちらもあまり、相手を見ていないように思える考え方です。

実際の教育はどこに?

実際のところ、完全な主体的な教育というのは不可能です。子どもの自然な発達に合わせて、その環境を整備するのはもはや神の如き行為です。それができないのであれば、主体的な教育は放置になっていわゆるネグレクトになってしまいます。
逆に完全な詰め込み教育も不可能です。子どもには意思がありますので、必ずどこかでぶつかりますし、ぶつかった時に押さえ込むのであればそれはただの暴力です。
完璧な詰め込み教育は暴力に等しいとなってしまいます。

結局のところ、詰め込み教育と主体的な教育というのは、バランスが大切という話になってきます。
やはりある程度教える必要があるし、ある程度子どもの考えを尊重する必要がある。

この曖昧なバランスの中でないと教育は成り立たないということでしょう。
もちろん最近の教育はまだ詰め込み教育によっているので、今の主体的な教育をという流れは賛成できるものですが、詰め込み教育の存在そのものが悪ということではなく、バランスが大切だということでしょう。

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