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世界のうつくしさを再発見するための長い旅路

 取り留めもない雑記をまた書いていこうと思う。今回は日々の生活の中で、あるいは創作世界や、創作の過程の中で、そこにある「よさ」を再発見すること、あるいは過程をテーマにしてみようと考えた。普段詩を書いているせいか少々カッコつけたタイトルになってしまったが、雑記を書くならば意識的に姿勢を変えて、比較的理解されやすいタイトルを付けようと思ったのだ(詩を書くときの自分は説明性をかなり殺すようにしているので)。

 自分を一つの姿勢に統一して生きていくのが難しいのは、流れの速い現代社会の特徴であると思うし、かといってその速度に音を上げて思考停止しては考えの硬直に繋がってしまう。ただ、書くまでもないことではあるが今までの自分を壊すのはとても怖いことだ。そしてその白けた廃墟の中で、新しい世界観を打ち立てることもとても怖いことで、誰にでもできることではないほど困難なことだ。ちなみにエッセイを書く時は敬語にしようかと悩んだが、敬語にするとどうしても本音が出にくくなってしまうので、世界を打ち壊す機会ではあるがいったん見送ることにした(敬語文体は社会的機能を多分に含んでしまうため)。

 人は、成長するにつれて生存のために周囲の人を具体的に観察する能力が付いていくものだと思う。また、定説的な話で恐縮だが、逆に大人になるといわゆる感受性が落ち、それが失われていく傾向があるだろう。古来、人はずいぶんと寿命が短かった。最近所属団体の舞台イベントの際に、暇な時間に会場の本を読ませていただいたが、その本によると大昔の人の寿命は30歳とかその程度だったらしい。私であれば一周忌である。自然の中で生きていれば死んでいる年齢だと考えると、波のように新規性が襲ってくる情報過多な現代社会において感受性が落ちるのも全く不思議な話ではない。

 私の話をさせてもらうと、昔から他人の観察が苦手だった。どうにも興味があるものだけしか観察しないタイプの人間なのだ。テレビゲームを黙々とやり、音楽ゲームにハマり、ネットコンテンツ(ネットサーフィンの時代、ニコニコ動画、YouTube)にのめり込んだ。つまり、極端に人間観察をしないタイプの人間だった。大人になってみるとその分のツケがずいぶん来ていて、他者が発するサインにきちんと気づけたり、反射的に適切に反応したり、積極的にその在り方に価値を見出すのが今もかなり不得意なのだ。意識的に矯正はしているものの、社会に生きる一人の社会的動物としていまだに大きなコンプレックスである。耳が不自由だという理由もあるが、自覚して以来はそれを言い訳にして矯正をサボってきた節もあると思う。

 自然は人によるが、少なくとも社会は無条件にうつくしいものではないだろう。しかし現実生活において、世界の大半は社会であり、現実である。そして若さという特権的な翼から与えられた新鮮な体験も、少しずつ色褪せていく。

 そんな中で、私は創作の世界に逃げ込むことが増えた。それはいわば社会からの逃避であり、世界の異化であり、こころの守護であった。それはきっと価値のあることであったと思う。そして、私の他にも大勢いる創作をされるみなさんも、そのようにして人工社会に対する異世界の創造としての創作を行う人は少なくないだろう。

 社会に生きる一員として必須である人間観察をずいぶん怠ってきた私だが、最近は文章書くだけではなく、文章を評として贈るという試みに手を出し始めた。詩の批評サイトで、他者の詩に対する評を書くことだ。ここで私は多くのことを学んだり悩んだりしている。詩に対する読解や評には恐らく答えがない(すべての読解は、すなわち誤読であり、それが大切なことだと私的に思っている)。それが面白いところであるが、しかし評を贈ることはなかなか難しい。自分(読み手)は、そして相手(書き手)は、褒められたいのか?本音が欲しいのか?技術に触れて欲しいのか?解釈を聞きたいのか?私は、それを予想して配慮するべきなのか、私が大切だと思う指針を貫いて言葉を贈るべきなのか、相手に合わせるべきなのか。自分は社会性のある人になりたいのか、それを多少犠牲にしてでも自分の考えの芯がある人になりたいのか‥。

 批評サイトでの私の評の総数は100を超えていて、最近のものだけでも50程度は贈ったと思う。一言コメントではなく、ある程度の文章量があるものだ。その中で、私は理解されなかったり、理解できなかったり、傷つけたり喜ばせたり、自分や相手の品性のなさに苛ついたり、つまり大いに悩んだ。しかし失敗したと思った時の特徴に、「相手の作品をよく読み込んでなかった(観察が足りていなかった)」ということがある。また、「カッコつけてわかったふりをしてしまった」ということも多い。それは文章ではなく現実での対人関係における自分の至らなさとも相似する。

 文章や詩は人ではないが、人が書いているのだ。人を観るべきなのだ。本来なら人はそれを文章読解能力という、動物としての人類からしたら特殊能力と言える領域ではなく、幼少期からお喋りや視覚理解で行う。私自身の能力や特性も、声でのコミュニケーションより文章のほうに合っていたこともあって、今さらながら文章創作とその批評という形で人としての修養をしている感がある。ちなみに写真の趣味も実はあったのだが、人を撮ることがほぼなかったのでその時点ではまだ人を観る修養をやろうと思えるほどの社会性が持てていなかったようだ。

 また、そうして今さらながら詩という創作領域から、批評という領域に踏み込み、さらにこうして雑記(エッセイ)という新しい場所に踏み込んでいくと「今度はもう少し現実世界においても、人を観て話さないとな」という気持ちに少しだけ傾いている自分を発見したりする。

 もちろんそれは最初の一歩というきっかけであって、突然人が劇的に変わることはほぼない。それどころか言葉と行動や人間性は、なんと矛盾を引き起こしてガッカリさせることが多いのだろう、と頻繁に自分に落胆する。それでも、なにか自分が得意な領域で得た知見が、自分の至らない領域や記憶に対する反省になることがあり得るなら願ったりである。

 私はずっと、一人で楽しめる趣味や創作が得意だった。これからもそれ自体は基本的は変わらないだろう。それでも、今だって創作団体に所属し、人との交流の機会を持ち、不器用で不安定ながらも「今よりよくありたい」とは少なくとも願っている。世界のうつくしさ、ひいては創作のうつくしさ、他者との関係の煌めきを再発見できるのは、ありきたりな結論だが自分自身の長い人生体験による変化しかないのだろう。

 一般的な意味での創作行為は、より自然に、つまり社会的に動物的に世界に適応できる人なら、もしかしたら特に必須なものではないのかも知れない。ただ、私のように不器用で、一人でいるのが心地よく、それでも時に寂しくなってしまって創作による世界をふと紡ぎ出してしまう人にも、そういう道筋もあるようですよ、と書き残しておきたい気持ちになる。人が声ではなく、文章を発明した時のように。

 だから、もし文章を読むのが好きで、このような長文をわざわざ読んでくれた物好きなあなたにも、世界がよりよく見える瞬間が訪れて欲しいと私は願っています。お話の終わりは願いや祈りで終わることがやっぱり多いな、とふと思いながら。


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