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詩を離れて、文章練習としての雑記

 ふと、雑記、あるいはエッセイのような文章の練習をしてみようかと思った。思いたったが吉日なのかはやってみないと分からないが、せっかくなので書いてみることにする。

 この情報が溢れる社会のなかで、僕は詩や短歌をここ二年ほどたくさん書いてきた。意味のない(あるいは意味が異化した)言語創作のフィールドは、社会的な言語操作能力が弱い僕にとっては適性もあり、善き拠り所となってくれたように思う。しかし、ものごとには必ず最低限のバランスというものが必要とされる。それは僕だけではなく、この世に生きているみなさんも同じ事情を背負って生きていることだろう。

 そうだ、一般的な文章では段落を一段下げることが多いのだった、などと思い出しながらこの文章を書いている。なにかテーマを考えた方がいいのかも知れない。そう少しずつ思考が変化していく。思いたったので「効率」というワードをテーマに書いてみようかと思う。

 効率がいいことは、いいことであるか?答えはYESであり、NOである。例えば僕があえて詩や短歌など、極めてお金や広い共感に変換しにくい創作手法を行ない、多くの時間をそれに費やしているのはまったく効率的ではないだろう。エンタメに振り切ったようなものは別かも知れないが、文芸には避けがたくそういった性質がある。しかしそれは古代の時代に、人が当たり前に祈りや儀式の時間を持ち、豊かな時間として捧げてきたように、なにか効率以外の価値を持ち得るものであると思っている。僕がそれをできているかは自信がないが。

 一方、僕は恐ろしくものぐさでめんどくさがりなので、私生活の雑事はかなり効率化を意識しているほうだ。ゴミ箱は箱ではなく袋として宙に吊り下げられて、椅子に座ったまま移動せずに捨てられるようになっている。主食は白米ともち麦をミックスしたものや、電子レンジで茹でられるパスタなど、便利で栄養バランスの良いものに固定していたりする。腐りやすいものは基本的に買わず、長持ちする食材を基本に据えるし、ネットスーパーで食料調達を済ませることも多い。

 「効率」は人の心を蝕むか?僕の経験から推察すると、かなり腐る。僕を始めとして現代人、あるいは近代人が元々は持っていた基本的な想像力が、生活が便利になるほどに不可視化されたり、失われていくことを度々実感する。これはなかなか悲しいことだし、僕自身とても反省が多いことだ。

 僕が好きな言葉に「べき論で効率化するべきことはして、べき論で片付けられないことにリソースを使うべきだ」という言葉がある。つまり、川で洗濯物を洗うよりは明らかに洗濯機を買うべきだが、その分浮いたリソースに関しては、より深く考えたり、エネルギーをかけて行動に移すべき価値があることに使いなさいという助言だ。

 ここで再び現れてくる普遍的な問題が「バランス」だ。僕たちは「効率」の心地よい毒に支配されずに、かけるべきことに時間をかけ、大切なことに心を込めるべきである。それはそう。そうはそうなのだけど、正論が人を救うことは稀なのが世の常であることが、少しだけ寂しい。僕の場合で言えば「効率」を重視する時はただただ生きるのがめんどくさいからせめて、というネガティブな理由のことが多いし、創作や趣味の前に生活があるべきだ、という力強い定説の前には、「詩とか書いている前にもっと社会的な地盤を固めていくべきなんだよなあ」と頭だけで悩んだりしてしまう。正論は耳に心地よく響く。そしてなにより、絵に描いた美しい人物画であることがあまりに多いのだ。

 そういう訳で先進国の現代人(近代人)は、「効率」と「儀式や祈り(あるいは善き風習)」とのバランスにいつも苦しんでいるような印象を受ける。自分自身が毎日のようにその両極端をやっているので、人格が三つくらいはないとやってられない気がするくらいだ。

 それでも僕は、生きていく限り少しずつ、蟻が歩みを進めるように天秤の重さを調節し続けていくのだと思う。そういったことがどうにも苦手なあらゆる人たちにも、どうか幸あれとしずかに願いながら。

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