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幽霊体験ばなし6「母の愛は繋がっていく」
みなさんこんにちは 頭はツルツル心は10代 Bana父です😊
今回は、母の愛をテーマに体験話をします。
🔶幼少期
僕の家は、決して裕福ではなかったが、工場で働く父と専業主婦の母、姉と僕の4人家族でそれなりに幸せだった。
小さい頃の僕は体が弱くてよく熱を出した。 熱を出すと母は「頑張るのよ。あとでおいしいものを買ってあげるからね。」と言いながら僕をおんぶして病院に連れて行ってくれた。
熱を出した時に、一つだけ楽しみがあった。
母がジュースを買ってきてくれて、枕元にいつも2本置いてくれた。今は売っていないガラスビンに入ったグレープジュースとオレンジジュースだった。とても美味しかった。
🔶少年時代
母は、とにかく子供を可愛がってくれた。 子供中心の生活で、お金が掛かるからと自分の服は裁縫して作っていた。
僕は小学生の頃、友達が持っている最新型の自転車に乗りたくて、友達の自転車の後ろを押していた。そうしたら時々乗せてもらえるのだ。
自転車を買ってほしいとは言わなかった。 お金が掛かることを知っていたから。 そんなある日、僕を不憫に思ったのか、母は新しく自転車を買ってくれた。とても嬉しくて、日が暮れるまで走り回ったことは今も忘れられない。
姉は、頭が良くて勉強も好きだったが、僕は勉強が嫌いだった。 将来何になりたいかと聞かれても特になかった。中学校を卒業する時に僕は 「高校には行かずに働く。」と言ったが、 母は「高校だけは卒業してほしい。」と言うので仕方なく高校に行った。
🔶青年時代
高校を卒業して、実家から通える所に就職した。真面目に仕事をして給料を貰えるようになった。家にも生活費を入れることができるようになって一人前になったような顔をしていた。
僕は26歳で結婚して家を出た。 結婚する時に母と約束した。「定年退職したら外国旅行に行こう。それまでは元気でいてよ。」 母は「それなら、健康に気を付けて長生きしなきゃね。楽しみにしてるよ。」と言った。
結婚後も、母は僕を心配してくれた。 「駅まで行くから元気な顔を見せなさい。」と言ってくれた。
僕の家は、実家のある駅の隣なので、途中下車して年に何回も駅で会った。 母は、お小遣いと僕が好きな果物が入った袋を渡してくれた。
母の口癖は「あんたに何かあったら、私も生きていけないんだから、体に気をつけなさい。」だった。
🔶母が倒れる
母は、80歳の時に脳出血で倒れた。 姉から連絡を受け救急病院に着いた時には、色々な検査をしている最中だった。 何時間経っただろうか・・。 医師から病状の説明があるというので親族が部屋に呼ばれた。
医師は、「出血箇所が、脳の中心であることと高齢であることもあり手術はできない」とのことだった。頭を殴られ、胸をえぐられるような衝撃を受けた。
母は、一命は取りとめたものの、リハビリの甲斐もなく、失語症と左半身不随の後遺症が残った。介護なしでは日常生活を送ることはできなくなってしまった。
失語症で思ったことが言葉にならない状態だったが、僕や姉には消え入りそうな声で「死んでもいいから家に帰りたい。」と何度も言った。それをなだめるのは辛いことだった。
救急病院だったため、病状が安定したら退院しなければならないので、姉と相談して介護付き老人ホームに入れることにした。
母は、それから約1年頑張ったが、肺炎になって状況は益々悪くなり、医師には覚悟するよう言われた。
🔶母の死
そんなある日の早朝、母が亡くなったと姉から電話があった。 僕が病院に着いた時には、まだ温かかった。 「母ちゃん、お疲れ様。よく頑張ったね。」 それしか言葉は出てこなかった。
姉は「泣かないんだね。私は母ちゃんに抱きついてワーワー泣いたよ。」と言ったけど、実感がなく涙は出なかった。僕は冷たい人間なのかもしれないと思った。
施設の人にどうしますかと尋ねられた。何も考えられず、どうしたらいいんですかと聞き返した。
「葬儀社に連絡して、引き取りに来てもらってください。」と言われ、実家に近い葬儀社に電話し迎えに来てもらえることになった。
母と一緒に実家に帰り、葬儀社との打ち合わせをし、通夜は翌日、葬儀は翌々日に決めた。 家族葬にし、親戚は本家にだけ連絡した。
🔶不思議な体験
通夜が翌日になったので、母は実家で一晩寝かせることにした。僕は母と同じ部屋で寝た。
深夜2時頃、母が僕の布団に入ってきた。
明らかに布団をめくられた感覚があった。 母の姿は見えないけれど、僕に寄り添っていると感じた。とても驚いたが、不思議と恐怖は感じなかった。
母の感情が伝わってきた。 自分の家に帰れた安堵感と何が起こっているか理解できず戸惑っているような感じだ。
僕は母に「ようやく家に帰れたね。良かったね、お疲れ様。」「もう魂は体から出ているから、苦しくないし、痛いところもないよ。」「外国旅行に一緒に行けなくてごめんね。約束を守れなくてごめんね。」と言った。
通夜、葬儀、初七日、49日、一周忌と法要を重ねていくうち、母を思い出して涙が出ることは少なくなっていった。
🔶母との思い出
そんなある日、母の実家がある町の駅に行った。駅の改札を出た途端に、いつも母が待ってくれていたベンチが見えた。母の姿が思い浮かぶ。
堰を切ったように涙があふれてきた。 僕はいつものベンチに座り声を押し殺し、ハンカチを目に当てて泣いた。
今考えれば、もう少し親孝行をしてあげればよかったと思う。
でも、体がなくなって目に見えなくとも、母の愛は子や孫に繋がっていくと信じて生きていこう。
僕は60歳になってしまったが、目標を立てて毎日一つ一つ、自分がやりたいことやろう。
行動を起こすのに年齢は関係ないのだから、遅すぎることなんてないんだから、悔いが残らないよう一所懸命生きて行こう!
そして、いつか母の魂と一緒に外国旅行に行こう!
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本日は以上バナ父でした^^
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