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恐れすぎず、緩みすぎず

唐突だが、私は手フェチである。

まあフェチって言っても、どうしたいわけでもどうされたいわけでもなく、とりあえず眺めていたいだけではあるのだが、対象に対してなんかしらのこだわりがあるというのも「フェチ」に含まれるそうなので、言い逃れようもない。具体的には、とにかく指が長くてすらっとした手に大変な憧れがある。はわわわーーー!!ってなってしまう。我ながらもうちょっとなんか表現があるだろうと思うけども、はわわー!!なんですよ。伝われ。伝わってくれ。

それはさておき、綺麗な手が好きだなぁと気が付いたのは多分高校生くらいだったと思うけど、果たして何でなのかは長らく不明なままだった。というより、何がきっかけなのかさして考えたこともなかったのだが、ひょんなことから、私の綺麗な手好きは丸々コンプレックスの裏返しであるのに気がついた。

指輪を作ってもらいに行った時のことである。
「手が小さいから、あまり華やかだとバランスが悪くて不恰好になるから」と伝えたところ、お店の方はやや不思議そうに、「いえ、特に手は小さくないですよ」という。それで改めてよくよく観察してみた結果、手自体は小さくなくて、相対的に指が短めであるのがわかった(私は中指よりも手のひらの方が長い)。で、じゃあ何で「自分は手が小さい」と思い込んでいたのかというと、子供の頃、母や祖母がよく私に「小さい手だね」と言っていたからだった。
母と祖母の言葉に悪気がなかったのはよくわかる。どちらかといったら、可愛らしい小さな手というような、褒める温度で言っていたのは、子供ながらによく分かっていた。それがいつの間にか自分の意識に刷り込まれて、「自分の手は小さい」と思うようになっていたようだ。

程度の違いはありつつも、同じように、決して貶したり傷つけたりするつもりはなく、場合によってはポジティブな意味で言ったであろう言葉に縛られている(いた)という話を聞くことがある。
我が家も現在子育て中で、2歳の我が子は絶賛「よのなかのりふじん」と戦っているところだ。
残念ながら、子供の理不尽は大人の道理であることが多いので、そういうもんじゃから頑張って覚えなせえと叱ることになるわけだけども、それを伝えるために言いすぎていやしないか、そうでなくても、幼い頃の自分のように、プラスの意味で言っているつもりで、何か枷をはめるようなことをしてしまっていないかと定期的にとても心配になる。それこそ、特に叱る時は結構同じことを何度も何度も言うので、どうにも頭が消耗していくからだ。

とはいえ、あまり気にしすぎてしまったら、それこそ本当に何にも言えなくなってしまうので、少なくとも、存在や価値を否定するようなことを言わないように、褒めるべきところは褒めて、君が大事なんだよと伝えることを心がけている。どのくらい充分にできているかは分からないけれども。

言葉を含めて、あらゆる表現は受け手がいる以上、おそらく完全無欠なものは存在しない。
怖がりすぎず、甘えすぎず、適度に開き直りながら、伝える努力をしたいなぁと思うのだ。

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