見出し画像

ばなログ:わたしが駄々をこねているだけの話

ばななが亡くなってから十日が経った。

ばななの物の整理、火葬、治療費の支払い、お世話になった方々へのお礼。昨日で「やらなくちゃ」と思っていたことは一通りやり終え、この先は起伏のない日常が続くのだろう。

色々な方に「ちゃんと食べてね」「ゆっくり休んでね」とお気遣いいただくのだが、みなさまの心配を裏切り(?)私はすこぶる元気、平常運転である。
旺盛な食欲は相変わらずだし、夜になればぐっすり眠れる。友達とばんばんLINEをし、くだらないことでワハハと笑う。もう、涙がこぼれることもない。そもそも、ばななが亡くなってからそんなに泣いていない気がする。前回の記事を書いている時はベソベソ泣いていたが、仕事絡みの連絡が来たので涙は引っ込んだ。火葬前の「体」とのお別れの瞬間でさえ、目は潤んだが涙はこぼれなかった。「ああ、私ってこういう人間なんだなあ」と若干やるせなくなった。

でも、平穏な日々の中にはいつもさびしさが潜んでいる。テレビを見てゲラゲラ笑っている時も、美味しいものを食べている時も、眠りにつく数秒前の幸せを感じている時も、さびしいという気持ちがうっすらと漂っている。「※さびしいです」という但書が、全てのものにひっついているのだ。

「チーズケーキ、美味しいな」※さびしいです
「今回の朝ドラ面白いな」※さびしいです
「モーニング娘。は可愛いな」※さびしいです
「今日は天気がよくて気持ちいいな」※さびしいです
「やっぱり湯船につかるのは最高だな」※さびしいです
「時任三郎はかっこいいなあ」※さびしいです

悲しすぎて感覚が麻痺している、みたいな感じではない。平気なのだ。そう、私は平気なのだ。心身ともに健康な生活を営むことができている。そしてそれはこれからも続くだろうという謎の自信がある。心は大して強くないが、神経が図太いのが私という女なのだ。
けれど「元気に平気な普通の日々」を過ごしながらも、心のどこかでばななの実体を求めている。物理的に彼女を求め続けている。精神的な繋がりではなく、重みや手触り、温度に香りを感じたいのだ。
お腹の上にのせて、一緒に眠りたい。足が痺れた!と文句を言いながら、膝の上のばななを撫でたい。いびきの音が聞きたい。ふくふくとした小さな体に顔をうずめて、香ばしいにおいを堪能したい。もう一度、思いっきり抱きしめたい。抱きしめて、好きだと言って頬擦りがしたい。
形があることが、これほど大切なことだったとは。口では「ばななはきっとここにいる!」だとか「もう目も見えるし、自由に走れるし、なんでも食べられるし、幸せだろう」なんて言って「私は形には捕われません」というポーズを取っているものの、実際のところは執着しまくりだ。

ずっと「せめて夢に出てきてくれ」と念力を飛ばしてお願いをしているのだが、従順系ドッグではないばなちゃんはなかなか現れてくれない。こんなに一日中考えているばなちゃんの夢は見れない癖に、寝る十分前にチラと見たアメリカのテロについての夢は見てしまうってどういう了見だ!!!!!!

ばななの服を着せた骨壺を抱き締めると、少し心が落ち着く。骨壺はばななみたいに温かくも柔らかくもない。呼吸の音もしなければ、香ばしいにおいもしない。硬いし冷たいし、蓋がずれる「カチャン」という音はするし、挙げ句の果てにはお香のにおいがする。全然「ばなちゃんみ」がない。それなのに、不思議とばななを抱きしめている気持ちになれる。弱い心と図太い神経。そしてなんて単純なおいらの脳味噌。でも、そのトンチキで単純な己の脳味噌に、私は救われているのかもしれない。

彼女が夢で抱っこさせてくれる日まで。
きっと私はぶちぶちと文句を垂れ、さびしいさびしいと唸りながら骨壺を抱くのだろう。

あーあ。あいたいなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?