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【超完全版】適応障害体験記。復職までに知るべき12のこと。

はじめに

 なんとか必死にしがみついていた崖から手が放れてしまって、加速度的に落ちていき、どうすれば良いかわからない。不安だけが押し寄せてくる。適応障害で休職中の僕はそんな気持ちでした。しかし、こんな僕も3カ月後には復職し、再休職することもなく今も穏やかに生活しています。あることに気づいたからです。
 このブログでは適応障害やその他精神疾患により休職した方、復職後も悩んでいる方に向けて、僕の体験談を共有します。適応障害にまつわる12個のテーマごとに詳しく書きましたので、短期復職・再休職防止のモデルケースとして参考にしていただければと思います。

1. 症状について

 いつからか明確に覚えているわけではありませんが、キーボードの上にある両手が小刻みに震えるようになりました。早急なタスクがあるわけでも、何かに怯えているわけでもありません。
 プロジェクトリーダーのFさんから業務依頼の連絡があり、承知しました。と返信をすると、涙が出てきました。なぜ泣いているか自分でも理解できませんでした。そのときは無感情で、別につらくも悲しくもないんです。
 翌日の仕事が不安で夜はなかなか眠れませんでした。明日は何が起こるだろう、僕は対応できるだろうか。明日のタスクは〇〇と××だ。そんなに大変ではないし、定時前には終わるだろう。その後に少し資料の確認をしておこう。次の締め切りは来週の金曜か。金曜をバッファーにするとして、木曜目標だな。CさんとYさんのバグ対応が少し心配だから、その確認も今週中にやっておかないと。ん、明日でこれ終われるか?今日もFさんから急な依頼があったし、思考を必要としない作業で今さっとできることはやっておくか。するとベッドから飛び起きて自宅からリモートで会社のPCに接続し、作業を進めていました。深夜2時前にやっと疲れて眠る。そんな日々でした。
 朝は最も憂鬱でした。6時に起床し、身支度を終えるとソファーに座り、コーヒーを飲みながら15分じっと何も考えずぼーっと過ごします。何も考えられず、ただ減っていくマグカップの中身を眺めていました。1年目のころは1時間前に出社して資格の勉強をしていましたが、その頃は30分前に出社して業務を始めていました。
 倦怠感や集中力の低下もありましたが、こんなものはいつから発症したか、そもそも病気によるものなのかもわかりません。初期の適応障害の症状では、適応障害と医者に言われるまで、病気であるとは思えないでしょう。しかし、悪化すれば抑うつは気付かぬうちに重くなり、対処しなければうつ病へと進行する可能性もあるそうです。

2. 性格について

 適応障害やうつ病になりやすい人と検索すると、真面目で几帳面、責任感が強い、人あたりが良く、周りからの評価も高い人という情報が見られました。なんだか悪い気はしませんが、よく考えてみると大体の社会人が上記に値するのではないでしょうか。
 あなたの周りに落ち込みやすい人やネガティブ思考の人はいますか?そういう人が抑うつ状態となるのは理解できる気がします。僕は人との距離感の取り方はうまく、社交的な性格です。子供の頃からクラスの中心的存在でしたし、部活動、学校行事でも何かと目立つタイプでした。また、小学4年生から始めたバスケットボールでは、高校時代東京都ベスト4という結果を残した体育会系育ちです。厳しい上下関係の中での立ち回りも理解していました。大学時代サークルの幹事をしていたことを考慮すると、平均より人付き合いは多い方かもしれません。
 僕は性格と精神疾患にはさほど関連がなく、どんな人でも何かをきっかけに発症する恐れがあると思っています。僕自身、うつ症状が出るなんて思いもしませんでしたから。

3. 仕事について

 僕はIT企業に勤めるシステムエンジニアです。それなりに歴史のある企業です。システムエンジニアといってもさらに細分化され、作るものもさまざまですが、僕はメーカー向けのIoTシステムを作っていました。数年後みなさんの生活を支えることにもなる結構面白いものです。顧客も業界最大手の企業様だったので、部内でも注目度の高い案件でした。
 僕の仕事のスピードは、同僚と比較しても著しく遅かったと思います。今振り返るとどんどん遅くなっていた気がします。あなたは細かいところに目が届くと言われ、僕には各種チェック業務が降り注いでいました。当然品質が問われる業務です。どうしても残業が発生してしまいます。体力には自信があったので、45時間を超える残業時間も特に気になりませんでしたが、このチェック業務と抑うつ症状の組み合わせには終わりがありません。仕事でも仕事以外の時間でも常に不安が襲ってくるため、やりがいというより安心を感じるだけの毎日でした。
 これを耐えれば、良い経験が積める。プロジェクトとして必ず評価される。そう思ってとにかくやるべきことをやるという意識で毎日を過ごしていました。次第に表情は固まり、休みの日に映画や漫画を見ても何も感じなくなっていました。こうして思い出していると当時の疲労感が蘇ります。こういう時に大事なのはなぜ僕はこの仕事をしているのか、という疑問に対する答えだと思います。当時の僕にはその答えがわかりませんでした。頭の中で「目の前にあるやるべきことをやるだけだ」と言い続けていました。毎日その言葉を言い聞かせて踏ん張るには、僕の心は重くなり過ぎてしまいました。

4. 職場環境について

 僕の所属するチームはNさんという40代プロジェクトマネージャーが管理するチームでした。通称Nチーム。Nチームは少数精鋭で、優秀な4名のエンジニアが揃っているという特徴がありました。そこに2年前僕を含む新人エンジニアが3名加入しました。チーム配属後に先輩から聞きましたが、Nさんは「なんで新人が3人も入るんだ、ちっ」と面倒くさがっていたそうです。僕以外の同期の2人は情報系学科出身の生粋のプログラマーでした。趣味はオンラインゲームで休みの日は自作したPCで1日中ゲームをしているそうです。2人でよくゲームの話をしていました。僕はゲームをやらないので、話を聞いてもよくわかりませんでした。
 研修を終えた僕たち新人がプロジェクト加わり半年以内に先輩エンジニア3名が退職しました。そしてNチームはマネージャーのNさん、先輩エンジニアのFさんと新人3人の5人体制となりました。30代後半プロジェクトリーダーのFさんは温厚な性格で僕たち新人エンジニア3人の面倒をよく見てくれていました。先輩エンジニア3名の退職とプロジェクト進捗の関係で中国人の派遣プログラマーが4名追加になり、僕はサブリーダーを任されました。2年目の僕がサブリーダーに就くのは異例でしたが、チャンスだと思い業務に取り組んでいました。
 僕はNさん(マネージャー)が苦手でした。よく舌打ちをする方で、常にイライラしていました。僕がミスをすれば指導が入るのは当然ですが、「本当にわかってる?」という最後の確認が僕の心を締め付けました。とはいえ、プライベートな話をする機会や業務以外の世間話をする機会を少しずつ作ろうと心がけました。人間的な繋がりができると2人の間柄も変わってくるだろうと思ったからです。Nさんの機嫌が良いときは話が盛り上がることもありましたが、発する言葉の棘や尖った考え方から僕はどんどんNさんのことが苦手になる一方でした。プロジェクトの忙しさと比例してNさんのストレスは増加し、僕はNさんのアイコンを見るだけで息苦しくなるようになってしまいました。
 この話を友人に共有すると、上司が酷かったと全員言います。確かに不機嫌オーラを出す人は良くないと思います。「自分の機嫌は自分で取れ」と心底思っています。しかし、そういうタイプの人は無意識であり、その人にとってはそうするしかないんですよね。幼稚園生の男の子がおもちゃ売り場でひっくり返って泣き怒っているのと同じ現象でしょう。僕はその上司をおもしろ話として友人に話したり、深く関わらないように意識していました。それでも彼と出会って1年半が経つころには手が震えるほどのストレスを蓄積してしまっていました。

5. 病院について

 身体、精神どちらにも共通して言えることですが、医者から病気であること、治療で回復が可能であることを告げられると楽になるものです。客観的な事実に基づき、自分で自分を慰めることができるからでしょうか。病気だから仕方ないねっと。
 心の診察をしていただけるのは、精神科、心療内科、メンタルクリニックです。僕にとって心療内科で診察をし、結果をもらうというのは心を軽くする1つの手段でした。
 僕はWeb上のストレス度合チェックテストをよく実施していました。心のコップにストレスという液体がどのくらい溜まっているのかをチェックするんですね。Web上のテスト結果がどのくらい信憑性のあるものかはわかりませんが、一つの目安にはなるでしょう。ストレス耐性とはいかに心のコップを満たさないかという能力です。コップの容量には個体差がありそうですが、生きていると容赦無くストレスは注がれてしまいます。なので、定期的にコップに穴を開けてやる必要があります。僕は週末彼女とデートをしたり、家族と美味しいものを食べたり、友人とお酒を飲んだりと充実した休みを過ごしていましたが、どうも心の重量が変わりませんでした。Web上のストレス度合チェックテストの結果もなかなか良くなりません。そのサイトをスクロールしていれば、〇〇メンタルクリニックという文字は目に留まります。
 ネット予約をした診察日は仮病で有給を取りました。診察では症状や職場の人間関係、これまでの人間関係を聞かれました。15分ほど話をすると、「十分適応障害と言えますね」と言われました。しかし、初診の段階で診断書は発行されませんでした。診断書が提出されると企業側は労働者を休職させなければなりません。当時の僕はプロジェクトの状況を考え、とても休職はできないと判断しました。担当医はできれば休職した方が良いと言っていましたが、到底受け入れられませんでした。今のプロジェクトは僕のキャリアにとって最も重要なのだから。
 心療内科の対応はすごく柔軟であり、個人の業務状況や勤める企業の規約等に合わせて診断書を記載していただけます。診断書に記載する休職期間も日付指定を希望すれば、その日に合わせてくれます。企業との休職手続きをする際、診断書は必須です。発行には4~5000円ほどかかりました。なぜか診察や薬よりもこれが最も高い。。。

6. 休職について

 僕は仮病で心療内科に行ったその日のうちに人事部の相談窓口宛に相談メールを送信しました。これまで適応障害と診断された社員の対応経験のある人事なら良いアイデアを持っているに違いないと思いました。人事からすぐに返信があり、オンライン面談をすることになりました。診察結果を含めた現状を伝えると、休職に向けて話が進みました。人事から部長に話がいき、すぐに部長ともオンライン面談を実施することになりました。部長は他チームからメンバーのアサインをし、プロジェクト環境の整備に動いてくれました。そうして、僕は仮病の翌日から休職することになりました。
 休職期間は2ヶ月です。最初の1ヶ月は療養、もう1ヶ月が復帰のためのリハビリ期間と担当医から説明がありました。僕としては1ヶ月も休めば大丈夫と当時は思っていましたが、今振り返ると1ヶ月では短いですね。
 休職した直後は緊張感が続きます。休んでしまって申し訳ないという罪悪感が襲ってきました。チャットやメールは確認してしまうし、なかなか心が安まりません。とはいえ仕事ができる状況かと言われるとそうでもなく、アニメを見たり寝たりとダラダラした生活を送りました。こんな過ごし方ではまずいと思い、机に向かったりしますが数日経つと昼間も寝ていました。療養期間ですからそれで良かったと思います。療養期間は好きなことをするのが1番です。僕はカフェでコーヒーを飲みながら読書をすることが好きです。雰囲気の良いカフェであればお気に入りのカメラで写真を撮ることも好きです。また、身体を動かすことも大好きです。ジムでトレーニングをしたり、社会人サークルでバスケットボールもしました。プロジェクトが忙しいと残業でなかなかいけなかった美容院や脱毛、皮膚科にも行けました。人は悩むと、自然を求めるそうです。僕も例外ではなく、キャンプやハイキングに行きました。普段はあまりやらないことですが、秋のアウトドアレジャーはとっても良いリフレッシュになりました。こんなことをしていたら1ヶ月はあっという間に過ぎ、心は不思議と軽くなっていきました。心が軽くなってからは、働きたい欲が出てきました。担当医や部長にも相談し、復職に向けたリハビリ期となっていきます。
 リハビリ期にはまず生活リズムを休職前に戻しました。朝6時に起床し、身支度をして7時半に外出する。昼間は勉強や読書など集中力を必要とする作業を行い、夜11時ごろ寝る。7時半に外出といっても特に出かける用もないので、愛犬と散歩です。昼間の作業ですが、僕は情報系の資格勉強をしました。それなりに意気込んで取り組みますが、さすがに8時間も集中力が続きませんでしたね。最初のうちは3時間やったら疲れてしまい、ベッドで横になっていました。徐々に3時間→5時間→8時間と1週間ごとに勉強時間が増えていきました。
 回復のペースもリハビリのペースも、人それぞれだと思います。症状の深さ、家庭環境、経済状況など複数の要因が絡み合って関係していますから、僕と休職スケジュール感が合わなくても全く焦る必要はないと思います。

7. 薬について

 精神科や心療内科を受診すると、必ずしも薬を処方されるわけではありません。症状の程度や原因、個人の希望などを考慮して、医師が判断するそうです。環境改善など、薬以外の治療法も有効な場合があり、必ずしも薬が必要とは限りません。僕は初診時にロラゼパムという頓服薬を処方されました。不安や緊張を和らげる抗うつ薬で、緊張感で眠れないときなどに飲んでみてと担当医に言われました。さらにその2週間後にはエスシタロプラムという意欲低下の改善や気分を落ち着かせる効果が期待される薬を処方されました。こちらは毎夕食後の服用でした。
 結論から言うと僕は1度も処方された薬を飲むことはありませんでした。抑うつ症状は脳の不調と環境によるストレスが原因で引き起こすとされていて、適応障害は環境によるストレスの比重が大きいそうです。僕の場合は休職し職場から離れると緊張感や不安は自然となくなっていきました。また、精神薬は離脱症状が含まれるため、医師の許可なく途中で辞めることができません。上記の抗うつ薬はセロトニンという幸福物質を出す目的で処方されましたが、セロトニンを出す方法は他にもあります。とはいえ、僕は当時自分の判断を信頼できなかったため、心理カウンセラーの母や臨床心理士の叔母の意見を参考にしました。精神薬というのは一般的には飲まない方が良いとされているそうです。本当に電車の中で呼吸が荒くなったり、うなされて眠れないなど辛い場合に飲んでみるのは良いですが、特にいつも通り過ごせているならば、自然にセロトニンを出す方法を選択することをお勧めします。実際担当医に薬を処方された次の診察時に薬は飲まなかった旨を伝えると、眠れていたり規則正しい生活ができているなら飲まなくても大丈夫だよと言われました。

8. 手当金について

 休職するとノーワーク・ノーペイの原則に従い、固定給の支給は停止されます。一般的に人の不安とお金は密接に関わっていますから、精神疾患で休職した僕は給与面でも苦しめられました。
 療養のために仕事に就くことができず、給与が受けられない場合は健康保険より傷病手当金が支給されます。支給額は給与の3分の2程度です。給与に固定残業代が含まれる人は注意してくださいね、ここでいう給与に残業代は含まれません。傷病手当金の申請は焦って行う必要はありません、休職した月の分の手当金を翌月に申請することになります。僕の場合は人事部から申請書や休職中の給与イメージを記載した資料が届きました。企業によっては見舞金のような制度もありますので、確認してみてください。給与の3分の2の支給と記載しましたが、各種保険料や税金は通常通り控除されますので手取りはもっと少ないです。また支給日は明確にわかりません。休職した翌月に申請書を提出して、処理が終わり振り込まれるのはさらに申請した次の月になります。つまり、実際に傷病手当金が振り込まれるのは休職した月の2〜3ヶ月後です。
 あなたの手取りが減ることで、生活が難しくなるのであれば考えなければならないですが、休職中は趣味など心が軽くなる活動に使うお金は躊躇しない方が良いと思います。心療内科や精神薬もタダではありません。もし休職中の人が、精神薬を飲みながら交際や食事、美容、趣味等を節制しているようでしたら症状は改善しづらいでしょう。
 とはいえ、今後の生活や仕事がわからない状態で貯金を切り崩すことに抵抗がある気持ちもものすごくわかります。キャリアや働き方について考えることも当然必要になると思っています。

9. 治し方について

 適応障害の治し方は、休養と環境整備です。僕の場合は1ヶ月のんびり楽しく休養をとったら、心は軽くなりました。これは短い方ではないかと思っています。2週間に1度の部長とのオンライン面談が、良い指標になりました。休職した直後は部長と話をすると、もう職場に戻れないなという絶望感がありましたが、のんびり過ごせてからは、業務をしていたころと同じような感覚でお話しできるようになりました。
 環境整備は人それぞれでしょう。仕事内容が自分に合わな過ぎた場合は、仕事を変える必要がありますし、業務量が多過ぎた場合は、調整が必要です。僕の場合は人間関係でしたので、部署移動を会社に希望しました。そして移動後もあまり苦手だった上司と顔を合わせたくないなぁと思ったので、それも素直に部長に相談しました。すると、他部署で入れそうな場所を用意していただき、無事に別部署への移動が決まりました。勤務地も変更していただきました。
 しかし、移動した先で再び人間関係で悩むようなことがあればどうしようと思うのです。そもそも今まで人間関係で悩むようなことはなかったのに(あっても病気になるほどではない)、なぜ抑うつ症状が発症してしまったのだろう。心療内科で担当医に聞いてみると、Nさんは特殊な人で、あなたのいた環境は特殊だったから、そこから離れればあなたなら大丈夫だよと返答がきました。確かに特殊かもしれませんが、僕は腑に落ちませんでした。これは、不安や緊張があったというわけではなく、単純な疑問でした。
 Nさんは確かに部内でもあまり好かれていないようでしたが、僕の心の締め付けられ具合は異常でした。Nさんの仕事ぶりはリスペクトしていたし、ものすごく嫌いというわけではありません。同期や友人との会話の中で彼を卑下するような発言をしたこともないです。どこかで愚痴をこぼしていたのなら、もう少し楽になっていたのかもしれませんが、あんまり陰で人を悪く言うのも好きではないので。いずれにしても、適応障害の本当の課題は環境よりも自分自身にあることは間違いなさそうだなと思いました。

10. 心の傷について

 夜の第三京浜を気持ち良く走っているとき、「この車は良い車だな〜」とつい呟いてしまいました。この言葉どこかで聞き覚えがあるなぁと思いました。それは僕が小学1年生ごろだったでしょうか、父と2人で富士山ドライブをしていたときに父が言っていた言葉でした。ドライブ中、ずっと僕は緊張していました。何か悪いことをして父を怒らせてはいけない、あまり気を遣っていては息子らしくないため、程よく子供らしく接しようと考えていたのを覚えています。
 僕が小学校に通っていた5年間、両親は別居していました。原因は父のDVです。僕は小学校低学年だったので、別居直前の家庭環境のことをぼんやりとしか覚えていませんが、印象的な場面はいくつか思い出せます。父と2人でドライブに行った記憶もその1つです。僕はぼんやりした当時のことを思い出すと、Nさんのアイコンを見たときと同じように心が締め付けられる感覚があることに気付きました。
 別居前の父親は会社から帰ってきて、リビングにおもちゃが散らかっていると怒鳴り散らし、おもちゃを蹴り飛ばす人でした。また、おかえりなさいと言わないと、それが父さんに対する態度かと叱りつけられました。ご飯を残すと、器ごと床に投げつけました。その影響で僕はインターホンが鳴り父の足音が聞こえると、急いで自分のおもちゃを自分の部屋に持っていき、玄関に行っておかえりなさいと言うようになりました。父がいる食卓では喋らず、一生懸命残さず食べました。ある日、家族でディズニーシーに行くことになりました。原因は覚えていませんが、行きの車の中で父の機嫌が悪くなりました。父の運転は荒くなり、一般道では考えられないスピードを出していました。助手席で母は大声でやめてと叫んでいました。そのとき僕は目を閉じて何も言わずじっと座っていました。
それから5年後、別居が解消されてからも機嫌が悪くなることは都度ありました。ただその頃には僕も中学生になり、父がそういう人間であることを理解していたし、そこまで怯えてはいませんでした。
 思い返してみると、もうほとんど忘れていましたがとても精神的に苦しい経験が幼少期にいくつもありました。今まではその経験があったから、人の感情の機微に敏感になれた、空気が読めるようになったとプラスに捉えていましたが、本当は苦しかったんです。これまでの人生でも父と似たような人はいましたが、僕は無意識にそういう人と距離を取っていました。しかし、職場では関わらないわけにはいきません。Nさんの高圧的な態度、距離を取れない環境、自分の能力不足という3点セットはまさに幼少期の環境と同じであり、僕の心の傷を直接刺激していたのです。
 僕の場合、これが適応障害の本当の原因だと思います。たとえ職場を変え、仕事を変え、業務量を調整したとしても、この心の傷が癒えない限り、いつか同じ苦しみを味わうことになるでしょう。
当時の僕は毎日不安と緊張があり、怒られれば苦しく、もっと優しく温かい毎日を過ごしたいと思っていました。そして父は心のコップの小さい人なのだと思います。注がれるストレスによりそれが溢れたとき、暴れてしまうのです。父は機嫌が悪くなると荒れますが、数日間引き続き同じことでずっと怒っているというタイプではありません。まさに溢れた分だけ吐き出すようです。コップの大きさには個体差があり、それを大きくしろと言ってもそれは無理なのではないでしょうか。そう認識できると、なんだか楽になりました。今でも父は機嫌が悪くなると小学生の妹に怒鳴ります。そのときはまぁまぁと父をなだめ、妹にそんなに気にするようなことではないぞ〜と一言添えるような感じです。そして昔ほど自分の心は締め付けられません。
 無意識にある心の傷にはなかなか気付けません。そして、それに気づかないと同じようなことでいつまで経っても悩みます。子供の頃は癇癪を起こして、泣いて、寝てればよかったですが、大人になると生活や責任は大きくなっていて、悩みは複雑化し、どうして良いかわからなくなってしまいます。そして、応急処置として何も思わずやるべきことをやれと頭ごなしに自分を納得させます。その結果僕は適応障害になってしまいました。心の傷が原因の悩みは人それぞれであり法律や一般常識による解決が難しいです。誰しも心の傷やトラウマにはよく向き合い、そんな自分を受け入れることが必要だと思います。

11.  瞑想について

 僕は適応障害になってから瞑想をするようになりました。友人に紹介されたのがきっかけです。iPhoneのヘルスケアと連携できる瞑想アプリを入れて、マインドフル時間を管理しています。僕は休職中、将来の不安や現状の課題が頭の中を駆け巡って最終的にはぼーっとしているみたいな時間が多かったです。そして気分は落ち込み、結局何もできずに1日が終わっていきました。瞑想をすると複雑に絡み合った脳内がすーっと解けていきます。気分が不安から解放されて自然と規則正しい生活を送れたり、適応障害になった自分を客観的に見られるようになりました。また、心の傷に気づき病気との関連性について考えることができたのも瞑想を取り入れてからでした。
 初めて瞑想をしたときは、「何やってるんだろう、自分。」という瞑想をしている自分に対するツッコミに負けてあまり集中できませんでした。ちょっと笑っちゃってましたね。でも毎日毎日繰り返していると徐々に集中力が続くようになってきたんです。集中力が身につくと、趣味、仕事問わずすべての活動が味わい深くなる感覚がありました。この感覚を得てからはどんどんはまっていきました。
 復職してからも定期的に瞑想をしています。短時間で脳疲労の回復ができるので効率的に仕事ができたり、寝る前に瞑想をすることで睡眠の質が良くなったりなど、メリットが多いと感じているからです。ストレス発散方法はさまざまありますよね。飲食、睡眠、運動、旅などでしょうか。僕もいろんなものを試しましたが、今はただ静かに呼吸をする瞑想に落ち着いています。コスパもめちゃくちゃ良い。タダです。

12.  復職について

 僕は約3ヶ月の休職を経て復職しました。所属部署は移動になり、苦手な上司とは一切顔を合わせていません。復職直後は朝下痢をしていました。会社に近づくほど緊張感が増していく感覚もありました。1週間くらい経てば身体も慣れてきて、体調も改善しました。仕事は業務内容がアプリケーション開発からシステム保守・運用へ大きく変わったことから教育も含めてかなりゆっくりしたスタートでした。
 人事から最初の2ヶ月は残業なしという勤務形態条件もあり、安心して復職できました。ただ、最初の2ヶ月は意識的に業務負荷を下げられていましたから、このままな訳はないだろうなぁという不安もちょぴっとありました。
 復職して3ヶ月目、残業制限がなくなり業務量も通常通りに戻ってきました。残業時間は10時間ほど。それなりに心がざわざわすることも増えてきましたが、休職前と明らかに違うことがありました。1つは休息の質。仕事以外の時間は仕事のことを考えず、リラックスした自分に集中できるようになりました。2つ目は周りが気にならなくなったことです。仕事中周りで怒られている人や、不機嫌オーラを出している人は今の職場でもいますが、良い意味で自分には関係ないと精神的な距離を置くことができています。自分の作業にも集中でき、有意義な時間をつくれています。期待以上の仕事をするつもりは一切ないんですが、効率が上がることで結果的に成果物の質も上がっています。僕は無意識に周囲を気にする人みたいなので、職場ではちょっと不愛想メンタルくらいがちょうど良さそうです。うちに溢れる愛情やサービス精神は自分にとって大切な人や活動にたっぷり注ぐことにしました。
 復職後、職場が変わって今の職場が最高!という訳ではありません。疲れるなぁ、気遣うなぁと感じる場面は都度あります。そんなときは心の距離を置いて深呼吸し、気にしない。引っ張られる自分がいるんだなぁと思う程度です。現在も抑うつ症状が完全になくなることはないですが、そんな自分とこれからも生きていこうと思っています。

おわりに 〜それでも残る劣等感と後悔〜

 みんな休みたい。それでも自分を鼓舞して頑張っているのに、僕はドロップアウトしてしまったんだな。休職せずに泣き震えながらでも、プロジェクトを完遂すべきだったんじゃないか。復職後もこんな気持ちに何度もなりました。実際適応障害の症状が出ながらも休職せず、自力で困難を乗り切ってパワーアップしている人はたくさんいます。特に昭和世代の人に多い印象。
 現状、精神疾患や休職歴は戦力外レッテルになってしまいます。転職市場でもマイナスポイントになります。その現実を転職エージェントから知らされた時はへこみましたね。だからこそ、復職後も劣等感は残り休職したことに後悔しました。
 この想いを彼女に打ち明けたときの返答が心に残っています。
「休職するかどうかはただの選択だと思うよ。そりゃー休職しないでそのままやりきっていたら普通に良かったかもしれないけど、休職して良かったこともあるでしょ?それぞれにメリデリがあるんだと思うよ。」
 思わず笑ってしまいました。視野が広がって。僕は抑うつという状態について理解していませんでしたが、適応障害を経てわかるようになりました。ありのままの自分を俯瞰して見ることもできるようになりました。改めて周りの人への感謝の気持ちにも出てきました。ご飯誘ってくれたり、外に連れ出してくれた人のことを僕はずっと恩に感じています。
 今回の僕の経験が適応障害含めその他精神疾患、休職により不安や焦りを感じる人のためになることを祈っています。

あなたのサポートで僕の活動を応援してください! 適応障害は年々増加傾向にあります。しかし、その病気についてはまだまだ知られていません。症状が改善しても悩んでいる人はたくさんいます。僕は実体験からこの病気について発信し、適応障害に悩む人々の安心できる社会を実現したいです。